睦月のささやき

人っぽさ

計算やら記憶やら作業やらは機械の方がよっぽど人より優れていることが
今やあたりまえである。機械がいろいろできるようになってくると、
人はいらなくなるのか?

人工知能とかいうのが研究されている。
実験段階らしいが、しかし漏れ聴こえてくるには、素晴らしい知能が
出来上がるだろうと予想された人の手によるその子供たちは、
悪意の塊のような判断力をもっているらしく、人種差別、批判、陰謀、
罵詈雑言、いわゆる非人間的な意見を、実験中に噴出させるらしい。
あまりにひどくてあちこちで実験中止、という話だ。

一つにはネット上の人の意見を、地球上の人の意見の総意に近いと、
考えてしまったからではないか。
ネット上での発言は偏っているだろうに。

生身の人の面と向かった付き合いでは、相手が憎くて、死んでしまえ、
と思っても、その表現をやたらと出したりはしない。
一皮むいてその憎悪が出てくる人もいるだろう、
二皮、三皮むいて出てくる人、出てこないもいるだろうが、
人の心の奥には相手に対する否定的な感情がない、なんて言えないのも確かだ。
だけど何かがそれをセーヴしている、ということも現実としてある。

ホモサピエンスが今現在地球上で繁栄を誇って70億!も存在している
その理由は、生存本能が強かったからで、つまり、いつの時代も
新大陸へ渡ったホモサピエンスは必ずその地に生存していた大型動物を
絶滅させてきたという、ものすごい食欲なのだ。
同じホモサピエンスでも同じ民族系でも、戦闘を勝ち抜くことで
生き延びてきた、とユヴァル・ノア・ハラリという歴史学者は
その条件を説明している。

ここで、ネット上から現れた人の価値判断らしきものと、
ホモサピエンスの歴史上現れている 闘争本能など、
人の「悪」を認めるとしよう。
そして、この悪による繁栄という歩みが
人として本質的なのかどうか?永遠に変えられないのか?
変化できるなら、何をすればいいのか、そう、変化しうる、
とわたしは思っているので、その可能性を考えたいのだ。

ほとんどの人は戦争なんて嫌いだろう。
戦闘的である部分は人の一面なのであって全てではない。
男と女の発想法も随分違う。

世界中の宗教は(本質的に殺伐たる?)人を、共に生きるに可能な
穏やかな性格にしようと何千年と教育し続けてきたのではなかったか?
啓蒙主義、人道主義、というのもよりよきものを求める人の試みであったろう。

宗教を否定して始まったような科学は今や昔の人々が”神”と言っていた
”人を超越するような存在”に関して云々し始めているのではないか。
この存在との関わりを失った時、人の不安定さは増す、のではないか。

この究極の存在を希求するということは人にしかできない、と思う。

お腹の底に戦闘本能アリと認めて、だからこそ、人は優しく理性的に振舞うべし。
お互いの存在を認めあうべし。限りあるものを分かち合いながら生きてゆく道を
探るべし、という大矛盾のクロス、というのが人のあり方だろう。

機械にできることは機械に任せる、しかし人にしかできない、人独特の
あり方はなんなんだ?人っぽさというのは?

直感であったり、ゆらぎであったり、迷い、笑い、悲しみ、間違い?
であったりの、捉えがたい、人にしかないことがあるはずだ。
感情を昇華させ作品として作り上げる、芸術という行為も人独特ではないか。

そして生身の人と人が接する時には、データーの積み重ねだけでは決して
想定すらできない何かが生じる。様々な判断の材料が無限に存在する。
理のたたない矛盾を飲み込む決断をさせる何かがある。
摩訶不思議な存在がある。

宇宙は刻一刻と変化し続けているのだ。
その中にいる人も変化し続けているのだ。
私も昨日の私ではない。人っぽく、を忘れないようにして、
今から生きようと思う、2017年が始まる今!