カフェギャラリー & 陶芸くらぶ ばおばぶ

わたしのはなし

わたしのなはし

誰かが何かを話す、誰かがそれを聴く。そこから何かがはじまります。

「わたしのはなし」は軽やかなコミュニケーションの場。
毎回一人の話し手に、話したい話を語ってもらい、その後、参加者も加わって
感想や意見を自由に語り合います。
言わばみんなの「わたしのはなし」を語り聴く場です。
人の話を聴いてみたい人も、自分の話を聴いてほしい人も、老いも若きも来てみて下さい。
きっと新鮮な驚きに出会いますよ。

わたしのはなし  第十一幕

ディポック・チットラカール さん

9月9日(日) 3時より  1500円

ネパールの首都カトマンズで、約700年続く曼陀羅絵師の家系に生まれる
代々14世紀以降、同国公認で祭事の絵を任されている家柄で
密教と曼陀羅は生活の一部で育った
8歳から祖父の手伝いで描き始め
大学時代には王宮付きの絵師として
国外からの公人をもてなす部屋を彩る役目も与る
10年前に日本移住
「横須賀という好きな場所で描きたい作品を描くことで
見る人に幸せを届けたい」と語る

                    

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ネパールにおいて十四世紀から曼荼羅絵師として認定を受けている、チットラカール家のデュポックさんの 曼荼羅についてのお話を伺いました。
60cm四方ぐらいの赤っぽい曼荼羅はひどくエネルギッシュであった。。少し小さめの白っぽいのと、のぼりのような形のものと 三つ前もって送ってくださった。ばおばぶの白いふすまの前に飾られたが、近くによって見ると、 その緻密さに驚いた。全ての形には決まりがあるという。色は黄、青、白、赤、緑の五色。
基本的には日本のお寺にある曼荼羅と同じものであるが、ネパールは仏陀の生まれたその地であるから、 こちらの密教が元といえば元なのだろう。
曼荼羅とは、一つのエネルギーであると。
宗教のレベルを超えて、地球上のもの全ては平等である、皆求めているのは幸せ、 どうやって幸せになるの?幸せを守るの?
エネルギーを一つに集めてダイヤのように輝かせる、そのためにどうしたらよいかを、 うまくいきますようにと、お坊さんはお経を唱える、曼荼羅絵師はそれを形に描く、ということだ、と。

後半はやはり今の日本問題に移り、脱原発に向けて一人ひとりがしっかりと意識し 行動をすべきであるという導きをいただきました。

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松崎好男

人間は誰でもしあわせを求めていますね。しあわせを運ぶお経を形に したのがマンダラなのです。マンダラには地球の全てのもののしあわせを 守るというエネルギーが固まっているのです。だからマンダラは宗教の レベルを超えています。

ネパールの王室に仕える絵師の家として十四世紀から代々マンダラを 描き続けて来たチットラカール家(「チットラカール」は「絵師」の意)に 生まれ、自身もマンダラを描く事に精魂を傾けてきたディッポックさんが このように語った時、私の中にはある感慨が生ずるのを禁じ得なかった。

自分では描かないくせに高校時代から絵を見るのが大好きな私は、今でも 面白そうな展覧会があったりすると、いそいそと出かけるのを常としている。 先日、ある展覧会に雪舟の「山水長巻」がでていたので大喜びで見に行った。 と言うのも、この作品には以前から、写真では何度もお目にかかり、すごく 興味がひかれていたものの、実物は山口県にあり、関東から足を出すことの 殆どない私がそれを拝むチャンスは滅多になかったからである。

展示室のガラスの向こうに、十メートルを超える長大な巻物の全館が繰り広げ られていた。一人の男が従弟を連れ、山道を歩き始める。写真版で何度も 眺め、構図も何も良く知っている筈のその絵巻の発端を見た途端、私の目 からは涙があふれ出た。抑えきれず見物人の列を飛び出した。それからは列を 抜け出しては鼻をかんだり涙をぬぐったり、大変な思いをして一時間以上 かけてようやく見終えた。あの時私は何を感じていたのだろう。

実は絵を見て泣いたのはこれで三度目である。一度目はセザンヌの 「赤いチョッキの少年」だった。二度目はマネの「笛を吹く少年」だった。 両方とも一人の少年だけが描かれた宗教性とも悲劇ともおよそ縁の無い作品である。 つまり、宗教的恍惚や同情的共感で見る者の涙を誘うという性質の絵では全くない。 その点では「山水長巻」も同様だ。それなのに涙が出る。そこには何があるのだろう。

私がこれら三つの作品に共通して感じるのは、画面から何か分けの分からない何かが 立ちのぼって来るということだ。そしてその何かが体の奥深く入り込み、心をゆっくりと 振動させる感じがある、ということだ。そうして心の振動に応じて涙が出る、とも感じる。

改めて考えて見ると、そもそも優れた絵画は、程度の差こそあれ、美しいとか美しくないとかを はるかに超えて、このような感じを起こす力を発散している。絵によっては、 目をつぶってその前に立っていてもその力を感じる事がある。さらに言えば、目をつぶって 見た時に力を感じる絵が本当に優れた絵だとさえ思える。絵画の持つこのような力は、 ディポックさんの言う「地球の全てのもののしあわせを守るエネルギー」だと いってもよいのではなかろうか。

ディポックさんの描いたマンダラからは、確かにそのようなエネルギーが発せられている ように思えた。殊に数メートルの距離を置き、描かれた個々の仏の形が判別できない位置から 見た時、作品全体が赤や青の光で静かに輝くが、その先はとても心地よいものであって 見るものをあたたかく包み込む。この「しあわせの光」に包まれる感覚は、例えば モネの「睡蓮」の大画面の前に立った時の感覚とよく似ている。

平安時代の日本海がは仏画の最盛期であり、名作が次々生まれたが、私は今日まで、 それが仏教の教義を、経典を読めない人々に分かりやすく伝えるためにあるとばかり 思って来た。しかし今回ディポックさんの話を聴いて、異なる見方が出来るようになった。 東京国立博物館の「普賢菩薩像」も青蓮院の「青不動」も、教王護国寺の「両界曼荼羅」も、 教義に忠実でありながら、結局は「しあわせを守る」ために描かれていたに相違ない。 考えてみれば、単に教義を伝えるだけなら、あれ程までに力強い絵を描く必要もない 訳だ。

優れた画家が心を込めて描く時、それが宗教がであるか通俗画であるかなどに全く拘わらず、 画家の個人的な思想や生活をやすやすと飛び越えて、普遍的な一種のエネルギーを現実世界に 生み出すのである。そのエネルギーが神や仏と呼ばれて来たものと無縁である筈はない。

ゴッホは確かに精神病患者であったかもしれない。しかし絵筆を手にした時の彼が疑いようも無く 天使そのものであったことは、そのおびただしい作品群が証明している。セザンヌは宗教画を殆ど 描かなかったが、その作品はどんな画家の作品よりも優れて宗教的である。彼の絵のあるものは 時にバッハの音楽を連想させる。詮ずる所、画家は意識するかしないかは別として、「しあわせを 守る」絵をこの世に生み出すために描いているのであろう。そんな絵画の根源的動機とでも 呼ぶべきものを、ディポックさんの話から学んだ。

さてディッポクさんの話でひときわ印象的だったのは、彼の絵でヘルペスが治ると言う話である。 それは、布や紙に描くのではなく、患者の身体に直接描くのだという。それで実際に直るのだと。 これは面白いことだ。こんな事が科学で証明できるわけもないが、科学で説明できないことなど 世の中にいくらでもある。多分本当に治るのだろう。科学も最近は古来の人類の英知に少しずつ 光を当て始めているらしく、先日は「祈り」の治癒力が科学的にも実証されていると、 それをテーマとした映画を見て来たばおばぶオーナーの信代さんが熱心に語っていた。そのうち、 「気」や「オーラ」を測定する機械などというものも出来ないとも限らない。」

それにしても、肉体に描いた絵が病を治す力があると聞いて。すぐ連想されるのは入れ墨である。 アイヌの人々が入れ墨をしていたのは周知の事実だが、かれらはそれをファッションのためではなく、 魔除けのために行なっていたのである。もしかしたら、アイヌの入れ墨にも、ディポックさんの 絵のように、魔を除く力、すなわち病を癒す力があったのではなかろうか。それは単なる風習や 迷信ではなく、実際に効果があるから行なわれていたのではないか。何の理由も無く、ただの 風習や迷信で、痛みに耐えて入れ墨を施していたとは思えない。聖人の通過儀礼と見る人も多いだろうが、 そう考えて済ますのは、地震がナマズのせいだと考えていた昔の人と大差ないようだ。

土偶や土面の表現を見れば、入れ墨は遠く縄文時代にまでさかのぼる習俗だったと想像できる以上、 肉体に描く絵に肉体を守る力があることを、何千年も前から人類は知っていた可能性があると言える。 それならディポックさんの絵による治療は、そんな超古代の人類の知恵が現代にまで生かされている 一例だということになり、私は妙に興奮するのを抑えられないのである。

わたしのはなし  第十幕

小幡実さん 「 津波を 語る 」

7月29日(日) 2時より  1500円

岩手県田老町で民宿を営んでいた小幡さんは
昨年の津波で全てを失いました
民宿のあった場所には土台しか残りませんでした
今、根府川のヨガ道場に仮住まいしながら再起を期している小幡さんが
目のあたりにした巨大津波を語ります
あの日何があったのか
体験した人でなければ語れない現実の話に耳を傾けましょう

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松崎好男

小幡さんは岩手県の田老町で民宿をやっていた。五十畳敷の大広間があったというから 結構大きな宿だったのだろう。三陸海岸の美しい海に面して建てられ、地元の漁港で 揚がった海産物を供する、この地方の典型的な民宿だったにちがいない。それがあの 大津波で全て流された。

あの日、地震の直後、地元の役所の防災放送では「三m位の津波が予想される」と 言っていた。十mを大きくこえる津波にしばしば襲われているこの地域では三mの津波は 際立った大事ではない。テレビはつかなかったからそれ以外の情報はない。しかし 防災放送に関わらず、もっと大きな津波も避けられるような高台に車で逃げたのだった。 それをさせたのは、彼の勘とか生きようとする本能とかであったかもしれない。何にせよ、 この判断が彼の命を救った。一方一旦高台に逃げたのに、津波を軽く見て、貴重品 (例えば位牌)を取りに家に戻ってしまい、亡くなった人が何人もいるのだ。

「三王岩」と呼ばれる、海中に突き立った大岩を見下ろす高台から様子を見ていた。 地震後二十八分位が経過した時、まるで風呂の水が盛り上がってこぼれるように 海面が盛り上がって押し寄せて来た。岬の先端に当たって激しく砕けた波は、あっと 言う間に町を飲み込んだ。町はあふれた海に沈んだ。六階建てのホテルの四階から 上だけが水面を出ていた。

高台では三十人位が一晩を過ごした。夜に入って雪になった。あちこちで家事が出ていた。 その高台に同じ部落の山本さんも避難していた。山本さんが「小幡さん、終わったね」と 言った。小幡さんもやっぱり「山本さん、終わったね」と言った。

翌朝、水平線を昇る太陽はいつもの通り美しかった。「海にとっては津波なんて関係ないんだ。 苦しんでいるのは人間だけなんだ」と小幡さんは思った。明るくなってから家を見に行った。 家のあったはずの場所には基礎しか残っていなかった。津波の後の光景は、 ただただ無残、悲惨、残酷だった。後日、テレビに出ていた学者さんが「無常感」などと言って いたが、私の見た現実は、とてもそんな言葉に収まり切るものではない、と語る小幡さん。 体験した人としていない人とのどうしようもない隔たりがここにはある。

あの津波の被災者がどのように語っても、その人の目に焼きついた光景が、その深い闇が、 体の震えが、聞いている人にそのまま伝わることはないだろう。あらゆる体験がそうであるように。 それでもなお、その語りを、体験していない人間は聴き続けた方がよいのである。たとえ語られる 言葉が、体験の全体から見ればほんの小さな断片にすぎなくてもだ。

「津波の被災者に共通しているのは、全てを失った淋しさです」このたった一言の言葉からも、 私たちは人間が何か大切なものを「失う」どうしようもない悲しみを、身体に刻み付けるように 感じ取ることが出来るだろう。

後半、小幡さんがギターの弾き語りを聞かせてくれた。『舟歌』 『波浮の港』・・・・。 民宿の五十畳の大広間で、お客さんを相手に歌っていた古い歌謡曲の数々。ハイトーンの中に 渋みのある声は少し塩辛い味がした。青い海が目に浮かび、風の音が聞こえた。

わたしのはなし   第九幕

小田兵馬さん 「 桜 と 薔薇 」

7月1日 (日) 2時より  1500円

現実のありのままを見ることが大事だ
金沢区の三師会理事長として社会に関わりながら、数々の現場を見
現場を見なければ気づくことの出来ない何かに気づき
自ら感じ、自ら考えて来た小田さんの言葉は
新鮮な発見に満ちています
小田さんが、その広い視野の中から今回話してくれるのは
「今こそ日本人を考える」
日本語、国歌の特異性、庶民の暮らし
死生観、などなど様々な切り口で縦横無尽に語りつくします
弟さんでもある小田和正さんの話も何か聞けるかもしれませんよ

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松崎好男

たとえば入口に、「桜と薔薇」と書かれた札がかかっている。その扉の向うには長い散歩道が続いている。ぶらぶらと歩いてゆけば、次々と門が現れ、それぞれの扉にやっぱり札がかかっている。一つの札には「医療」とある。他の扉の札には「教育」とある。また先に進むと「国歌」という札がかかった扉があり、さらには「子守り唄」という扉もある。中には「小田和正」なんていう扉もあって、それを開くと「私も弟の和正も初めて聞いた音楽は母の子守り唄だった」と、小田和正ファンの泣いて喜びそうな話が聞けたりする。

かくして、歩を進める程に、異なる文字の書かれた札が現れる。この散歩道を歩む人は、一つ一つの扉を開き中をのぞいてみるのだが、決して門の内へ足を踏み入れたりはしない。入口から見える風景に一瞥を与え、静かに扉を閉め、さらに先に進むのである。

小田兵馬さんの話はこんな感じだった。次々と様々なテーマが提示され、それに関する小田さんの考えが一通り披瀝され、余り深入りせずに次の話題に移る。一つ一つのテーマは相当重い問題であり、本気で論ずれば一つだけでも一日かかってしまうようなものばかりである。

例えば「日本が今残念な状態になっているのは教育が間違っていた」と言う。現代の日本のどこが「残念」なのか、それと教育がどのようにかかわって来たのか、教育がどのように間違っていたのか、どうすれば良かったのか、多分、これらの問いに対する答えは十や二十ではない筈、と言うより論ずる人の数だけ考え方があると思われる。喩えて言えば、「教育」の門の扉を開けば、その向うには広大な森が広がっていて、「教育」の門に立ち入るとは、この森の中に迷い込むようなものだ。

また、「国歌」の門の内には「君が代」の歌の千年を超える歴史がぶ厚く積み重なっている。「わが君は千代にましませさざれ石のいはほとなりてこけのむすまで」の形で『古今和歌集』の「賀」の歌に載った所を起点とし、『和漢朗詠集』中に「君が代は千代に八千代に」の形が見え始め、さらは近世初頭に『隆達小歌』という恋愛歌謡を中心とする歌謡集の中にまであらわれて、ついには明治時代に薩摩琵琶曲の「蓬莱山」の詞集中から採られ、雅楽風のメロディが付されて、今の歌曲「君が代」が成立する。本来「天皇奉祝歌」であり、学校での儀式歌として歌われていたこの歌が、二十世紀末には法律上の国歌になる、という所を一応の終点とする「君が代」の問題は、とてもじゃないが一日や二日で、いや一ヶ月や二ヶ月で論じ尽せるテーマではないのである。

つまり、この散歩道に添って並ぶ、いずれかの門の中に入ってしまえば、それはもう「散歩」では なくなり「探険」や「研究」や「調査」になる。小田さんは今回散歩する思索者に徹していたのであって、聞き手は小田さんと共に散歩し、次々を開かれる扉から様々な風景を見ることを繰り返す。もし興味の持てる風景があれば、聞き手は後日改めて自分の力で門の中に入り「探険」を始めればよいのであろう。

私は「赤と青」の扉に興味を引かれた。青という色は人間の悲しみや孤独感と関係しているが、赤という色は「マルチゾール」というストレスと関係する脳内ホルモンを減らす効果がある、つまり人間は赤を見るとストレスが減るように出来ているそうだ。

私がこの話に興味を持ったのは、日本列島の歴史の中で、赤という色がかなり特徴的な使われ方をしているからだ。縄文時代、墓の内側が赤く塗られることがあった。同じく縄文時代の晩期には、特に東北地方で赤い漆を塗った土器が大量に作られた。降って源平の時代、木曽義仲は「赤地の錦の直垂」つまり真赤な衣裳を着して最後の戦に臨んだ。江戸時代、時に大流行した恐るべき疱瘡を防ぐための厄除けとして赤く描かれた絵(赤絵)が使われた。東北地方の民族芸能では例えば山伏神楽でも赤い衣裳が多用された。その他、還暦の赤いチャンチャンコ、海に入る時の鮫除けになるという赤い褌、女性の下半身を守る赤い腰巻、などなど赤という色が魔物や邪気を退ける力があると信じられていた形跡が濃い。(ついでに言えば夏目漱石の『坊っちゃん』に出て来る「赤シャツ」教頭の赤好みもこの流れの中にある。ハイカラを気どる人間が古い伝統を信じている矛盾への皮肉がここには見てとれる)こうした、日本列島に顕著に見られる赤の使われ方と、赤が人間の脳に対してストレスを軽減する効果があるという科学的知見が無縁であるとは思えない。

こんな風に小田さんの提示したテーマは、広大な世界につながって行くものが多かった。

小田さんは絵を見るのが好きだと言う。特に今一番関心があるのは、画家が最後の一筆をどこで終えたかであるとか。つまり作品の終り方の問題である。一方、小田さんは薬剤師として医療にかかわって来た人だが、今つくづく思うのは、治療ということは最終的には出来ないのだと。つまり、どう治療しても人は最後には死ぬのであって、死が避けられないものである以上、医療も人間が死をどう迎えるかに真剣に向き合わねばならないと言う。人間は人生という作品をどう終えたらよいのか。画家の最後の一筆に関心を持つ人らしい視点ではなかろうか。

わたしのはなし 第八幕

  

松尾慧 さん      横笛を生きる

中世に隆盛を極めながら、今日全く消滅してしまった「田楽」。
そこにはマジカルな何かがあったに違いない・・・・・。
演奏者として、正体の知れない「田楽」の謎に迫る松尾慧さん。
その真摯な姿勢は、音楽の見えない力を引き出そうとする彼女の
演奏そのものにも貫かれています。
横笛と共に生き、横笛と共に思考を重ねてきた一人の人間の言葉に
耳を傾けてみませんか。

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笛の音は吹く人の息遣いがそのまま現れているようなところがある。
その人の性格が顕に見えるような気がする。
笛という楽器は恐いほど人なんだと今回確信した。

松尾さんは、なんともいえず 真直ぐな正直な音を出される。
今日は演奏ではなくてお話がメインだったのだが、音も出してくださった。
お話も音も真直ぐに正直であった。

田楽という昔々庶民から貴族から全ての人々の心を奪った、パフォーマンスを たどり、突然歴史から消えてしまった謎、形骸の様に残されている、能、歌舞伎 というもの。
狂喜のように、乱舞する人々のエネルギーは何処へ消えたのだろうか。
歴史に残された断片から推測するミステリーは飽きることなく楽しかった。

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松崎好男

「話を聴いていると笛が聞こえてくるようでした」

横笛奏者、松尾慧さんの話を聴いた参加者の1人がこう語った。確かに、 そう言われてみればそんな感じもした。

彼女とは十年来の付き合いだが、慧さんと話をして、音楽以外のことが長時間話題に なった記憶がない。(他の人には他の話をするのかもしれないが)気がつくと彼女は今 作っている曲や、近々行なう演奏会について話していた。そして音楽を語る時の 慧さんは、他のどんな話題の時よりも楽しそうであり、生き生きしていた。この人の 頭の中にはいつも横笛が鳴っている、と言うよりこの人は横笛を生きている、頭の てっぺんから足のつま先まで全身横笛吹き、私の目に映る彼女はそんな人である。

慧さんは、篠笛、能管、龍笛など様々な横笛について厳しい修行を積み、どれも 高度な演奏ができるという稀有な演奏家である。このことをあまり強調すると、 「そんなことはちっとも自慢にならないと言って不満そうな顔をするので、それには これ以上触れないでおくが、ごく普通に見てやっぱりすごいことである。ただでさえ 広い彼女の芸域にさらに田楽笛が加わったのは比較的最近のことらしい。

鎌倉の、その名も「田楽辻子」という所で「田楽」をやると聞いたのは、確か2年前 のことだったと思う。「田楽」についてほとんど何の知識も無かった私は、慧さんから その話を聞いても具体的なイメージを浮かべることは出来なかった。その日滑川に かかる大御堂橋のたもとから報国寺にぬける小道を、慧さん以下おそろいの黒装束 に身を包んだ田楽隊が、笛と太鼓と鉦をにぎやかに鳴らしながら練り歩いた。後ろから ぞろぞろと、私たち一般の客がついてゆく。

歩きながら私は慧さんの笛の音に、何かそれまでと違うものを感じていた。彼女の 笛はもともと、たおやかな中に鋼のような強さがあるのが特徴なのだが、その時私の 耳に聞こえた笛は、同じ強さではあっても、大地に根を下ろした樹木のような動じ難い 何かを持っているように思えた。しかし、実のところ、それが何を意味するのか私には 見当がつかなかった。

今回の「わたしのはなし」の中では、この横笛の使徒とも言うべき真摯な演奏家が、 何故「田楽」という、現在知る人も稀になった芸能に深く足を踏み込んだのかが丁寧に 語られた。

彼女は言う、日本の伝統音楽、例えば能管を学べば、行けども行けども終わりの見えない 深い世界にはまり込んでゆく。その中で自己を表現することはとても難しい。伝統音楽と 現代とがどうしようもなく切れてしまっている以上、現代に生きる私という人間は伝統音楽 によっては表現し難いのだ。もっとワクワク出来る音楽がしたい。しかも伝統音楽の中から 充分な栄養分を吸収しながら、と。

傍からは修行僧のようにすら見える伝統音楽の修練の行路上で、慧さんはこのような 問題に突き当たっていたのだ。伝統音楽を自家薬籠中のものとし、加えて新たな 音楽の創造にも真剣に取り組んできた人が言う以上、その問題は重大、かつ本質的 なものだと受け止めねばなるまい。

「俳諧に古人なし」と芭蕉は言ったが、まるで古人のデパートのように尊敬すべき先人 であふれかえっているであろう伝統音楽の世界に関わりながら、それと離れることなく しかも独創的な世界を創り上げることがどれ程大変な仕事か察するに余りある。
かかえてしまった難題を解く糸口を強く求めたであろう慧さんの前に現れたのが 「田楽」 だったということにもなろうか。

時は後白河上皇の院政期、京中の人を貴賎上下問わず狂乱の渦に巻き込んだのが 「永長の大田楽」である。大江匡房が「一城の人皆狂えるが如し」(「洛陽田楽記」)と 嘆じ、藤原宗忠が「制止能はざるなり」(『中右記』)と呆れた未曾有の大騒ぎ、 一つの芸能が引き起こした十一世紀末の異常事態の記録は二十一世紀初頭を 生きる一人の横笛奏者に思いがけないヒントを与えた。

彼女は考える。この熱狂の裏にあるものは何か。人間をこんなに夢中にさせる力が 「田楽」にはあったのではないか、現代にはなく「田楽」にはあった力は何か、それは 「マジカルな力」とよぶべきものではなかろうか、と。
さらに彼女はこうも考える。

「田楽」の原点に田植えをはやす音楽があったことを考えれば、「マジカルな力」とは 自然に感染する力、命の核心に届く力のことではないか、そういう「マジカルな力」は 言葉をこえて伝わるだろう。今の音楽に足りないのはそういう力だ。そういう音楽を 私はしたい、と。そして、「田楽」を追及すれば、日本音楽の伝統から離れることなく、 ワクワクする音楽ができるのではないか、と。

「田楽」が慧さんにもたらした啓示はおおよそこのようであったらしい。「永長の大田楽」 で爆発した「田楽」は、しかし、奈良の「春日若宮おん祭り」などにわずかな痕跡を 残してはいるものの、その実体は殆ど消滅してしまっている。だから、音の「田楽」を 復元しようというのではない。地下水脈のように流れる「田楽」のスピリットから、何かの エネルギーなり発想なりを汲み上げながら、全く新しい音楽を創造しようというのだ。

「命の実感がピヨンと一緒になる」のが音楽だと彼女はいった。そして日本の音楽 伝統に根ざしながら、そんな命の実感のある音楽、現代に生きる自分の肌に ピッタリと合った音楽、命の共鳴が起こる音楽がやりたい、とも語った。
「田楽」ならそれが出来るかもしれない、と。

慧さんの話は、内容的に興味深いのはもちろん、高い話術に支えられていてとても わかりやすく、その上語り手の熱い思いが伝わって来るものであったし、ある参加者が 言ったように、「今ここでしか聞こえない音楽が聞こえて来る」ものであったといってよいだろう。 「生きている喜びや感謝が伝わってきた」という感想もあったが、そんな風に感じられるもの こそ、話の表面的内容や意味の世界を超えて、ことばの奥底から湧き上がる音楽だったに 違いない。慧さんが少しだけ吹いてみせた田楽笛の音色の力強さは(それはまるで 海に向かう断崖に吹き付ける風のようにも思えたのだが)、彼女のことばの力と正しく 響き合っていた。

「何故横笛を始めたのですか」という参加者からの質問に答えて、「私は歌うのが好きで、 歌い始めるといつまでも歌っているのですが、音痴だから歌の道に進もうとは思いませんでした。 横笛は歌う楽器なので始めました」と言った。つまり、かのじょにとって横笛は歌だったのだ。 とすれば演奏している時、彼女は心のなかでは歌っているのではないか。本人にも判然とは していないのかもしれない。

歌が人間の肉体そのものの表現である以上、慧さんが今、「もっとワクワクするような音楽が やりたい」と切に願うようになったのには、歌が持つ肉体性を横笛にも持たせたい、 歌う楽器としての横笛の機能を最大限に引き出したいという願望があるような気がする。
思えば以前、彼女が出した自主制作アルバムには『うたようたよ』というタイトルがつけられていた。 うかつにもそのCDを見て、わたしはこのタイトルの意味するところを深く考えてみようとしなかった。 「笛のCDなのにどうして『うたようたよ』なんだ、とちょっと首をかしげた程度であった。慧さんに とって横笛と歌が切っても切れない関係にあることが、今回やっと理解できたと言うわけだ。
まことに呑気な話である。

それにしても、歌が原初的に、神なり、スピリットなり、人間の魂なり、目に見えない存在に 「ウッタエ」かけるものだとすれば、「歌う楽器」としての横笛を追求して来た慧さんが 「マジカルな力」に至り着いたのは必然だったようにも私には思える、何しろ歌の核心は 「マジカルな力」でできていると言ってもよい位なのだから。ところで彼女が長いこと江ノ島の 天王祭中のお囃子「能神囃子」に参加しているのも見落とせない事実だ。
七月の熱い日中、島中の道を練り歩きながら何時間も笛を吹き続ける演奏につき 「私は山河に聴いてもらうつもりで吹いているし、またそれをかつて生きていた人々が聴いて くれている」と言った。

それなら「マジカルな力」とは自然に感染する力、命の核心に届く力だ」と考える慧さんは、 田楽と正面から向き合う以前から笛の「マジカルな力」を感じ取っていたことになりはしないか。
横笛は命の交感を創り出さねばならない。恐らく、これが彼女の演奏の根本的動機なのであり、 聴く相手が生きている人間であれ、死んだ人間であれ、自然界の存在であれ、神であれ、 演奏者と聴く者との命の最深部が共鳴しふるえ合う、彼女はそれを求めてずっと笛を吹いて来た。 そして、それを求めて今日も笛を構えるのだ。

そして、こう考えてみて、私は今ようやく、七八年前に彼女が言っていた「私は笛で祈っている」という ことばの意味が理解できた気がするのであった。

1990年代のワールドミュージック隆盛の動きに前後して、日本の伝統音楽を見直し、さらに そこから新しい音楽を創造しようとする人々が次々現れ、それぞれに優れた仕事をしている。
能管の一噌幸弘、太鼓の大倉正之助、三味線の本篠秀太郎、尺八の仲村明一、和太鼓の 林英哲、さらには亡くなった津軽三味線の初代の高橋竹山・・・・
音楽の専門家ではなくもちろん音楽ファンとすら言えない私でも一応これらの人々の演奏を 聴いた程にそれは明確な潮流になっている。

松尾慧という演奏家の仕事は、一見そうした流れの中にあるようにも見えるが、一方で大変に 独特なものにも見える。その個性がどうやら彼女の言う「マジカルな力」と関係していることは 間違いなさそうだ。

「松尾さんの笛は世界の人に聴いてもらった方がいい」とある参加者が言っていた。当然である。 又別の人は「世界の人より日本の人に知って欲しい」と言っていた。最もである。
彼女のような音楽家をこそ三月十一日以降の地球は必要としえいる。自己満足という 言葉ほど彼女から遠いものはない。近い将来、松尾慧の名は世界に知れ渡るようになるだろう。
世界のあちこちで、しかもパリやニューヨークではなく、アフリカやアジアの貧しい人々の村で、 あるいは戦乱にうちひしがれた人々の前で演奏する彼女の姿を私たちは見ることになるだろう。

私はそう確信している。

第七幕 わたしのはなし  河瀬幸夫さん

「いったい何から話したらいいのだろう」 まるでそんな思いの伝わってくるような話だった。 十五世紀、朝鮮で作り出されたハングル。その成立当初に編纂された釈迦の伝記 『釈譜詳節』 それは何巻あるか数えるのもいやになる程膨大な漢籍の経典の集成『大蔵経』の中から 釈迦の生涯にかかわる部分をピックアップし、朝鮮語に翻訳したものだ。

そこで使われているハングルは現行のものとは異なっている。実際参加者の一人であった韓国の人も 読めないと言っていた。それを訳したのだ、日本語で生きてきた人が。そこにどんな苦労があったか 想像するのは難しい。そこから何を知ったが、考えてみるのはさらに難しい。何の予備知識もない 相手にこの中の何を話せば分かってもらえるのだろう。

例えば森の中の一本の木を選んで森全体を語るのとおなじような困惑が河瀬さんにはあったのでは ないかと推察する。しかし、聴いていた人には確かに伝わったのだ。語る人の情熱が。そして 『釈譜詳節』の他を以って代え難い重要性が。内容の興味深さが。豊かな森は聴衆の眼前に姿を 現したのである。

参加者の一人に翻訳をやっている人がいて、分からない所があるとそれを乗り越えるのが大変で、 どうしたらよいか助言を求めた。河瀬さんは言下に、『完璧な翻訳はありません。分からない所は 分からないままで、あとの人に託す気持ちで書けばよいと思います」と言った。

全部分かってから書くのではない、分からない所をもったまま書き始めなさい。この忠告の意味する所は 深い。恐らく文章とは、分かっているから書くというものではなく、書くから分かるものなのだ。 分からないから書くと言ってもいい位だ。事は文章にとどまるまい。人間の行為そのものも、それが 創造的であればある程、どんな結果になるかもどうすれば良いのかもよく分からないままに始めるのだろう。

今回、河瀬さん自身も、どう話せば一番よく伝わるのか分からないままに話し始めたに違いない。 しかし、結果は、まことに深い感銘を聴き手に与えたのである。それはたぶん、本人にとってさえ 以外な程の深さだったのだろう。「聴いてもらえてうれしかった」と言う最後の言葉は、心の底から 出たものだった。

どうなるのか本人にすら分からない行為だけが新しい何かを生み出す、と改めて感じた。

松崎好男

「わたしのはなし」 第六幕

「3・11を人類史的に見る」 と題した古川さんの話は、3・11に至るまでの 人類の歩みをふりかえり、さらに、その上に立って、3・11以後人類が歩むべき 道を指し示そうと試みる極めてスケールの大きな、もし本にしたら何冊にもなりそうな ボリュームの話であった。

人類が「文明」をもってから、戦争と格差と差別が始まった。それは人類の五百万年に 及ぶ歴史の、わずか五千年のことに過ぎない。古川さんの思考はここを起点にして 多様に展開する。日本列島においては弥生時代から「文明」が始まるが、そこで 出現した高度な農耕社会は、「栽培植物」と「雑草」とを明確に区別する発想を 生んだ。その社会では、縄文時代にはあり得なかった差別が発生する。

人類が本来保ち続けていた人間の平等性が崩れたのである。

弥生時代に端を発する日本列島の「国家」は、その後トレーラーのように縄文的なもの を押しつぶしながら拡大を続け、今やこの列島にすむ人の生活を覆い尽くし、為に 表面的には縄文の思想は消えてなくなってしまったかに見える。しかし、古川さんは こう考える、「縄文の記憶」は現代においても脈々と継承されている、と。 では、それはどこにあるのか。

かつて詩人の宋左近もまた、「縄文の伏流水」ということばで、古川さんと同様の思想を 表現していた。宋さんは言う。「縄文の伏流水」は一且地下に流れ込んでも、はるかな 時を経て、例えば芭蕉や宮沢賢治のような優れた芸術家の表現から噴出する、と。 一方古川さんは 「縄文の記憶」が「日本国憲法」に 就中その前文に見出せると言う。 「日本国憲法前文」は 「平等」の思想で貫かれている、それこそが「縄文の記憶」だと 言うのだ。

大地と共生し、人と人とが尊敬を基盤にしてつながり合う。「平等」の思想が指し示すのは そういう人間の生き方であり、その生き方こそが、今私達を苦しめている原発の対極にある 新しい世界を創り出す。そしてそのような新しい世界を創造するに当たっては、現に「平等」 の生き方を実践し続けているアメリカ先住民イロコイの人々から学ぶ所が多いと古川さんは言う。

例えばイロコイでは、集団の意思を決定するのに多数決という方法をとらず、全員が一致するまで 徹底的に話し合うという原則を貫いている。多数決が、必然的に多数と少数の区別をつくり、 それによって、話し合いを尽くすことなく多数が少数を支配するという構造を生み出す。 「民主的」と言い難い意思決定方法であることは、原罪の日本国の社会が証明している。 それにもかかわらず、これまでこの「民主国家日本」では多数決に代る方法を誰も思い つかないで来た。あるいは考えてみようとさえしなかった。

「日本国」全体の市民の議論らしい議論もないままに導入され推進された原発制作の果てに 爆発した福島の原発事故」は、「民主的でない民主主義」の生み出した悲劇だとも言えよう。 イロコイのような「全員一致」は果たして私達の社会にも可能なのか。「何かを決める時には 全員一致などといっていられない。多数決によるしかない」と発言した参加者もいた。 この思いは恐らく、「日本国」の中にすむ多くの人の共有する所だろう。私達は多数決を 民主主義に欠かせない意思決定方法と教えられ、そう信じてきた。まるで信仰のように。 イロコイの「全員一致」思想はその信仰を根底からゆさぶる。

古川さんは原子力発電所の問題にも触れ、そもそも原発の被爆労働者は貧困を逃れるために 体を売っているのであった、就職難という貧困がなければ、原発は維持出来ない物だと言う。 この指摘は参加者に衝撃を与えたようだ。差別のある社会だからこそ生み出された原発という 現代の怪物は、人間の差別を食い物にして肥え太ってきたのだ。所有原発五十四基という 押しも押されもせぬ世界第三位の原発大国「日本」はそれに見合う巨大な差別を生み出していたのか。

「平等」な社会を実現する事なしに、原発の問題は解決しない。そう思わせられた古川さんの 「わたしのはなし」であった。

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池川明 さんは 六浦で 産婦人科医としてクリニックを開いていらっしゃいます。
10年程前から 「胎児の記憶」 について 発表なさってこられました。

「胎教」 という言葉は 古くからありました。
妊娠中は心して美しいものを見るように、穏やかな心でいるように、との教えだったと思います。
胎児への 影響を 考えてのことでしょう。
しかしそれとはまったく正反対の側からの アプローチでしたね。
大人の心を揺さぶるお話でした。

生まれてきた子供たちが はっきりと胎内での記憶を語る、ということは 
池川先生、ある時に 気が付かれたそうです。

狭い胎内での記憶だけでなく その前の記憶もある。
お空の上で お母さんを選んで ぴゅーっときたの・・・
子供は親を選んで生まれてくるらしい
優しそうなお母さんを選んだり、さみしそうなお母さんを幸せにするために
選んだり、ちょっと難しくなりそうな人生を選んでみたり、いろいろのよう。
この世は ある種の 学校?(この言葉は抵抗感のある人が多いです)
輪廻転生で こんどは これこれの 役割、課題だ、と知っている。
神様のような人もいるみたいだし、天使のような人もいるみたいだと。

私も 試練は 受け取るべき、と思っているし、
大きな試練を クリアしたあとの 恵は 本当に大きい、ということを
体験的に知っている。

自分の人生が 波乱万丈で こんな風に なるであろう、ということは なんとなく子供のときから
分かっていた、ということに お話を伺っていて 気がついてしまった。
何が起こっても 知っていたと言うか、納得していたみたいだ。
お空の上で そう 決めてきたらしい。

科学的に証明できない事で あるわけだけど、
10年前には このような ことを話す科学者はほとんどいなかったが
今は 若い医学生も 共鳴するし、ぽつぽつと あちこちで
魂やら なんやらの 人間に関する 摩訶不思議な 事柄を
述べる人達が でてきているようだと。
一般人は もっとスピードが速いかもしれない。
宗教をからめれば 当たり前の世界でもあるわけだもの。

池川先生の 博識な事、びっくり。
心の柔軟な事 びっくり。
何人か残って えんえんと 話は 続きました。
楽しかった!!

ばおばぶオーナー
堀越信代

人類史から見た三一一

古川博資

2011年3月11日は人類史上の転機になるでしょう。

500万年の人類史に文明は5000年です。15000年の縄文に弥生以降は3000年です。日本資本主義は144年です。

江戸時代は自然とともに暮らし、電気はありません。水車や家畜が動力となりました。完全なリサイクル社会で未来にゴミは残さなかった。その意味から考えると縄文文化の記憶が継承されていると言える。

大日本帝国78年間は植民地獲得の侵略戦争を重ねました。1945年8月15日の大戦終結は人類史上の転機となりました。全世界の人々と日本の人々の平和の祈念が日本国憲法に結晶しました。平等の思想・縄文の記憶が蘇りました。

ヒロシマ・ナガサキからフクシマの66年間は原爆と原発の日本であったことを思い知らされた。2011年3月11日の東日本大地震と東京電力福島第一原発事故があって日本に稼働54基予定14基もの原発があったことを初めて日本人は自覚した。
原発なしではプルトニウムはつくり出されません。原爆はつくれません。原発のゴミ(死の灰)は100万年未来まで無害にはなりません。特にここ40年の原発による電力のために地球を汚しています。いのちを司る遺伝子が破壊されるのです。
人類史上最大の犯罪を現在進行させていたことが全世界で自覚されはじめました。
原発のある世界には原発労働者が必要です。格差社会いわゆる貧困と就職難の社会なしでは被曝覚悟の労働者はありえません。金のためなら人権を売り渡す社会が原発を稼働させていたのです。日本の食料もエネルギーもアメリカの手の内です。安保に代わって憲法が出番です。
東日本大地震M9はもう一つ教えています。それは地球は生きているということです。活動期に入っているということです。文明以来忘れてきていた大地との折り合いを取り戻さなければなりません。日本国憲法の前提に「地球に悪いことをしない」の誓いを立てなくてはなりません。
縄文の記憶をとりもどすことが再びはじまったという点で人類史上の転機です。

23日に 皆で 以上のような 古川さんの お話を 基にして 各々の考えを 述べてゆきました。
原発推進派 であると 自分を表明する方 が この ばおばぶの 話し合いの 席に初めて現れました。
しかし 次の 有効な 手段が 実用化されるまでの つなぎの 手段として、ということではありました。
いわゆる 財界のものの言い方が ばおばぶで 聴くことが出来たわけですが
今現在の生活のレベルを 維持しようという大前提の上にたっているもので あるとの 条件付けはありました。

反対意見を お互いに きちんと聞く ということが 出来て とても良かった と思います。

憲法の前文が とてもすばらしいものであることを 教えていただけた 時間でもありました。
そして 終った後に 古川さんから 次のような メールを頂きました。 

ばおばぶ 一万年の芽 信代さま

「一万年の芽」から
降り来ることばがありました

博資(ひろすけ)は
「縄文のこころ=日本国憲法前文」を発信するために生まれてきていたと

ダテに5月3日に
生誕したのではなかった

前文を読みさえすればだれもが
私と同じこころを得るものと思っていた

発信しなさい
そのとき
初めて
受信されるでしょう

ばおばぶ 「一万年の芽」の発信を
私が受信したように

芽はどう膨らむかはヒトそれぞれなんです
そのことを松崎さんが教えてくれました
彼はイロコイの全会一致を導く「語らい」をやっているではないかと私には見えてきた

彼も降り来たる発信をしていた

私はそのように受信した

降り来ることばをきく厳かな場があるものです

ばおばぶ
の食の一つ一つ
器の一つ一つ
たたずまいと
吹き渡る風と
赤い太陽と
そして
のぶよさんと

受信は送信したそのままでは決してなく
受信は送信者よりより豊かで
多様なのです

発信しなさい
縄文のこころは
「未来は人間らしく懐かしいものだ」と気づくでしょう

弥生の文化は文明につながり
未来は「進歩」だから今より退歩はあり得ないと思うでしょう
ここ40年間原発の電力とあるいてきていた
再稼働が
代替えエネルギーがないかきり
と主張する

三一一は大地の声なのに
一向に聞きやしない
大地は揺さぶりつつけ
第二のフクシマが起こるでしょう

「未来は懐かしいものだ」と発信続けたときやっと一万年の芽は膨らむことができる。

私にも一つの芽を出させることができたでしょうか

ヒトには必ずgood mind がある

それは懐かしさを感じ取り、人間らしさを希求する

どんなヒトをも まるごと受け止めることができるようになりました

誰にでも「縄文=前文」を発信続けていきます

自らが憲法(前文)となる!

2011.10.25
九十九山人博資

「わたしのはなし」 第五幕

話す人:
上斗米 正子(かみとまいまさこ)さん
タイトル:
ことばが未来をひらく ~多言語活動の実践から~
日時
2011年9月4日(日)午後2時
参加費
1500円
  

◇Baobabの『場』で◇

遥か彼方、往復60億kmの宇宙大航海を小惑星探査機「はやぶさ」が成し遂げる時代、宇宙からみると星のひとつの地球、その住人は地球人、その人々が話す言葉は6000言語・・あるいはひとつ? 2011年4月から小学校で外国語活動が導入されたり、企業の社内英語化も進み英語でコミュニケーション取れない人は昇進しないなど、今なお外国語教育をめぐる周辺は加熱するばかりだが、このあたりで外国語コンプレックスは終わりにしよう。人間は生まれた環境のことばをいつのまにか、自然に、そしてだれでも話せるようになる。アジアやヨーロッパなど3・4ヵ国語話されている地域や国では、複数のことばをいつの間にか自然に話しているのだから。

地球上の人間のこの自然な営みに注目して、「ことばと人間を自然科学する」ヒッポファミリークラブの多言語習得プロジェクトにわたしも仲間や家族とともに取り組んだ。今年30周年を迎えた多言語活動の実践から、誰でも、何歳からでも、何語でも話せるようになると実感している。Baobabに集う皆さんのことばの『場』の中で、お互いの内にある想いや考えが引き出され、響きあい、外国語や日本語の壁がいつのまにか消えて、新しい「ことば」と「人」に出会うチャレンジをしてみませんか!?

◇プロフィール◇

川崎市在住、青森県八戸市生まれ。幼少から外国に憧れるが、長年外国語コンプレックスに囚われる。立教大学卒業後、フランス・ディジョン夏季講座と上智大学地中海洋上セミナーに参加帰国後、榊原陽氏(現言語交流研究所代表理事)の英語教育団体に参画。1981年言語交流研究所創立以来多言語活動の実践・推進と、ホームステイ交流(青少年・家族・高校生交換留学)の開拓;ヨーロッパ、アジア、ロシア(ソビエト時代から)などに尽力。言語交流研究所「7ヵ国語で話そう」教育講演会、学校、行政、校長協議会などで講演も。

現在は横浜市神奈川区でなみなみヒッポファミリークラブ主宰、言語交流研究所参事。今年2月には、LEX Americaが主催するノームチョムスキー博士(MIT言語学名誉教授)による「Language and Human nature, What is Language?」ボストン講演会に参加。スザンヌフリン教授(MIT言語獲得学・言語学)はヒッポファミリークラブの実践成果を高く評価し応援をいただいている。八戸市豊島和子舞踊研究所第一期生。松本奉山女史に水墨画師事。著書「有飛行―有元利夫と仲間たち」風濤社刊。人と人をことばで繋ぐ多言語活動を教育現場やコミニティづくりに生かしたいとチャレンジは続く・・・

「わたしのはなし」 上斗米正子さん

先日 来月して五ヶ月になるというアメリカ人のモルモン教宣教師と話す機会があった。 彼の日本語が余りに達者なので、日本語はどのくらい勉強しているのか聞いてみた。 来日前二ヶ月と来日後五ヶ月、計七ヶ月だと言う。私はたまげてしまった。彼はかなり こみいったキリスト教の話を、キリスト教の知識の乏しい私に日本語で説明し、しかも それに対する私の感想も充分に理解したのである。

一体たったの七ヶ月でここまで外国語を習得できるものだのだろうか。私はといえば、 中学、高校、浪人、大学と計九年間も英語を勉強してついに、まともな会話一つ 出来るようにならなかったのだ。この違いは何だ。

多言語文化活動で知られたヒッポファミリークラブで 長年精力的な活動を続けて来た 上斗米正子さんの話は 外国語の苦手な人間にとってまるで天啓のようだった。 「人間は生まれた瞬間から、母親の言葉を他の無数の音の中から聞き分け、自然に 身につけるのです」と言う。そして赤ちゃんのように、何も考えずに外国語を習得できるのだと。 それは何歳になっても可能だし、しかも何ヶ国語でも覚えられる、人間は本来何語でも 話す能力がある、という。

中学、高校のころ 「現在完了」とか「過去分詞」とか「仮定法」とか英文法を必死になって (でもないが一応真面目に)勉強したのはあれは何になったのだろう。

前半、上斗米さんの話が一通り終わりいつものティータイム。後半はヒッポ体験の ミニワークショップを参加者全員で楽しんだ。韓国語の歌に合わせて「LOVE]を 指で作る手遊び。その後は次々と流れるどこの国の言葉ともわからない外国語を 聞いて、聞き取れた音を意味もわからずにひたすら真似る。真似しながら何も考えていない 自分に気付いた。これが赤ちゃんが言語を習得して行く時の感覚なのかとちょっと思った。

勿論これだけで何かが分かるはずでもないが、とにかく気持ちがよかった。外国語が 習得できるかどうかは別として、これは老化防止に効果がありそうだ。

参加者の感想の中に、「わからかくてもこわくないんだ」 というのがあった。まさしくそういう風に 心を開く力がヒッポのやり方には秘められているらしい。上斗米さんは青森県八戸市の 出身だが、かっては自分の母国語である南部弁にコンプレックスがあり人前で使えなかったそうである。 ヒッポの活動をするようになり、沢山の外国語を話すようになると 南部弁を話すのが平気になった。 実際、この日も話の間に挟まれていた南部弁はとても美しくひびいていた。

彼女は「多言語に開ける」と何度も言っていたが、多分「多言語に開けた」状態の中では 南部弁が一つの言葉ならフランス語も一つの言葉だと思えるし、世界中の人類の言葉が 同じ重さだとも おもえるのだろう。フランス語は「フランス弁」である、ロシア語は「ロシア弁」だ。 英語も、イタリア語も、ヒンズー語も、スワヒリ語も アイヌ語も あらゆる言語は 「人類語」の 一つの方言である。こう考える事は、とりも直さず、全ての人間が同等だと認めることだ。

やっぱり言葉の世界は深い。

「わたしのはなし」 第四幕

話す人:
松尾直子さん
日時
2011年7月3日(日)午後2時
  

松尾直子さん を終えての感想

松崎好男

『風の谷のナウシカ』を思い出した。それもアニメーションではなく漫画の方だ。 漫画『風の谷のナウシカ』は、アニメーションで描かれた世界を遥かに超えた深淵に いたろうと試みた。その冒険は必ずしも成功したとは言えないだろう。だが、 作品中に鏤められた描字や言葉は、時に読む者に衝撃的ともいえる鮮烈な 印象を残す。あの言葉もその一つだった。

『命は闇の中にまたたく光だ』

物語の終盤、数々の絶望にうちひしがれたナウシカはそこから立ち上がり、 自己の全存在を賭けて叫んだのだ。

松尾直子さんはカウンセラーとしての経験から、苦しみの中でもがく人たちの 心の闇の中にも必ず光が見えるものだと言う。そして、その光は、その人が本当は このように生きたいと思う生き方に直結していると。さらに闇の中に体ごとつかってしまった 人間は光が見えなくなってしまっているのであって本人が持っている光を見つけ出す手伝いを するのがカウンセラーとしての自分の仕事だと言う。結局、闇と光を同時に持つ自分の ありのままの心に気づくと、人間は苦しみから脱出できると松尾さんは考えているらしい。

今、「考えている」と書いたが、本当は「知っている」と言いなおしたほうがいいのかもしれない。 これは思想の積み重ねによって到達した理論ではなく、体験の積み重ねによって得た知恵 と言うべきものだからだ。実際、彼女の語ったのは言わば結論だけで、そこに到る論証も 実例の呈示もなかった。

しかし、そこには何らかの「真実」があり、その「真実」は真っ直ぐに聴いていた人の心に届いた と思われる。多分人々はそこに思い思いの「真実」を見つけ出したのであろう。悲しみや苦しみの 只中にも生きる希望があり、そこから新たな人生が開けるということは、人生経験を積んだ人間なら 誰でも知っていることで、確かに松尾さんの話はその部分に一つの照明を当てている。その照明に よって、それぞれの人が自分なりの人生上の気づきを得るという仕組みになっていた。

語られたのは理屈ではない。理屈を超えた言葉、場合によっては理屈を無視した言葉なのであって、 だからこそ心から心へ直接に語りかけられている感じがするのだろう。理屈の衣を身にまとわない、 「自分はこう思う」という裸の心が聴く者の心をも裸にする、「天の岩戸が開くように心が開く」。 カウンセラー松尾直子の真骨頂である。事実、今回「わたしのはなし」に参加した何人もの人が 不思議なほどに心を開き、時には涙ぐみながら自ら深い思いを語っていたのだ。

「どんな人の闇の中にも必ず光がある」成る程その通りであろう。その闇にまたたく光とは、あるいは ナウシカの言う「命」であるのかも知れない。人生の闇の中で光に出会うとは、「命」に出会うこと なのかも知れない。闇の中でしか見えぬかすかな光のように、真実の「命」もまた、絶望の中にこそ その姿をあらわすものなのかもしれない。それなら絶望も捨てたものではない。

「わたしのはなし」 ― 第三幕 水無月―

話す人
青木勲さん(カトリック神父)
タイトル
―未 定―
日時
2011年6月19日(日)午後3時
参加費
1500円

私は、1944年11月12日生まれで66歳です。実の父親を3カ月の時に亡くし、母の再婚した養父の関係で、 小学生5年生の時カトリックの洗礼を福岡で受けました。

養父の東京転勤に乗じて、東京の私立「暁星学園」の中学一年に、 「マリア会」と言う修道会の志願者として入会し今年で53年が経ちます。

高校卒業後「上智大学」のスコラ哲学科に4年間籍を置きました。

その後暁星学園(東京)と海星学園(長崎)で合計4年間社会科と宗教科の教鞭をとり、再び上智大学に戻り神学科と神学研究科を卒業し、 1976年3月に母校で、カルデナールであった故浜尾文雄司教によって 司祭に叙階されました。

その後3か月のポルトガル語の講習を受けて渡伯。1977年9月以来、ブラジルのサン・パウロ州の内陸部で マリア会の宣教師として、 スペイン管区に協力してマリア会のブラジル創設書に参加。

今年の2月まで33年間働きました。

その間教会の主任神父、教区の司牧担当責任者として、 「基礎共同体」さらに「セン・テーラ」と言う土地のない農業労働者の「ムーブメント」と「貧しい人の側から見た聖書研究会)参加など。 日系人の移民者のための「日伯司牧協会」の会長役を4年間務め、 修道会内では、志願者・修練者の養成担当者として参加協力をしてきました。 この4月から、マリア会日本地区の地区長になりました。(自己紹介)

第三幕を終えて

青木勲神父をスピーカーに迎えての「わたしのはなし」が昨日おこなわれました。

三十三年間のブラジルでの体験の中からいくつかお話しくださいましたが、 青木さん自身の心がその時にどのように動いたか、がまざまざと分かるおはなしでした。

聴いていた者、各々の今の問題に響いたのではないか、という皆様の感想からの私の感想です。 宗教を信じるものと信じないものがいて、でもそれなり面白い展開がなされていった、ようでした。

三回目にして、お客様はほとんどが毎回お変わりになりますが、リピーターもでてきていますし、 この「わたしのはなし」自体が成長している様も見られました。 ふたを開けてみなければ、分からない部分がある、その醍醐味を味わえた、ようでした。

次回はカウンセラーをなさっている 松尾直子さんのおはなしです。
この方も何が出てくるか分からない、面白さを秘めた方のようです。 七月三日、日曜日 午後二時です。

松崎好男

「お前は僕の食べ物をとった」 ポルトガル語を学ぶためにホームステイした貧しい人の家で、何気なくとった 鳥のから揚げ。その家の食卓の約束を知らず、一人分の割り当てをちょっと 超えてとった青木さんに向かって投げつけられた三歳児フェルナンデスの抗議は、 敬虔なキリスト者の胸につきささった。

青木さんは、この出来事を、「文化の違い」とか「子どもの世間知らず」と言った都合の よい言葉でごまかすことなく、真っ直ぐに、正面から受けとめて、自らの信仰のあり方を 根底から見直した。言葉で言うのは簡単だが、このように真摯な自己変革が実際に できる人は本当に少ないだろう。

「何事も百パーセント自分をかけて生きて来ました。百パーセント愛することもあれば 百パーセント憎むこともありました。いつも自分のもっているものを全部ぶつけて来ました」

これが彼の根本的人生哲学であるらしい。こういう人だから、宣教師として三十三年間 働き続けたブラジルで、単なるキリスト教の伝道者であるにとどまらず、土地の人と本気で ぶつかり合い信頼し合うことが出来たのだろう。頭で理解するのではなく体で理解する、 「なまなましさ」の感覚、それは例えば人と人が本当につながっているという感じでもあるが、 そういうものが欠けていると、日本帰国後の青木さんは感じているそうだ。

彼がブラジルの人々と本音をぶつけ合って作り上げた人のつながり。 確かにこれは、大震災後のこの列島で最も必要とされているものなのかも知れない。

今回の「わたしのはなし」の参加者の中にはキリスト教の信仰者もいればそうでない人もいたが、 青木さんの話は、キリスト教への信仰の有無に全くかかわらず、しっかりと聴く人の心に届いた。 それは人々が、一人の人間として生きる彼の姿勢に共感したからにほかならない。そのためだろうか、 参加者の語る言葉も、自分の心の深みを見つめ、自己に忠実に語られていたように思う。

二時間のワークショップの間、ばおばぶの空間は、いつにもまして「ことば」のあたたかなエネルギーに 満たされていた。

 

「わたしのはなし」 第二幕

話す人:
吉村桂充(けいいん)さん
タイトル:
『ヨガ 魂の哲学にふれる』
  

伝統的な日本舞踊の中でも動きの少ない静かな舞いとして知られている上方舞ゆっくりとした動きの中に、どこからともかく立ち現われる力強さは、見る者をひきつけてやみません。

 

吉村桂充さんは 現代上方舞を代表する名手の一人。その芸は深く、強く、時に軽く、時に艶やかで、何度見ても飽きないのですが、そうした芸の力が、上方舞の厳しい修行の結果だというだけでなく、貪欲なまでに吸収され続けている多彩な知識技術に裏打ちされたものだということには興味を覚えます。

上方舞と舞踏としての関連の深い能の舞い手であるのを初め、和歌の作り手でもある。『梁塵秘抄』『閑吟集』のような日本中世歌謡にも関心を持つ一方で最近は連句の世界にも入り込んでいる。 古武術の修行,滝行、はてはヨガの修行まで、一体どれ程のものを身につけ、芸の肥やしにして来たのか 想像もつかない位です。そしてもっと大切なのは彼女の多様な関心の先に、何か一つの核のようなものが 見えていて、それが上方の舞の表現と密接につながっているらしいということです。

今年もインドに長期滞在してヨガの勉強をしてきた桂充さん。 今回はヨガの話を中心に興味深い話が 聞けることでしょう。 桂充さんの「わたしのはなし」の後は、参加者の皆さんに感じたことを話していただきます、言わばみんなの「わたしのはなし」でもあります。 誰かの話が聞いてみたい人も、自分の話を聞いてほしい人も楽しめる軽やかなコミュニケーションの場。それがこの『わたしのはなし』です。 どうぞ奮ってご参加下さい。

第二幕を終えて

「舞いには魂がそのまま現れます。だからよい舞いをするには魂を磨かなくちゃだめなんです」 これこそが上方舞踏家吉村桂充さんの根本思想であるようだ。彼女が三十年の長きにわたって ヨガの修行を続けて来たのも、ひたすら「魂を磨く」修練のためであった。

「わたしのはなし」第二回は 桂充さんによって語られる ヨガの思想を聴く機会となった。 ヨガは人間が大いなる存在と自己との合一に至る為の知識、技術、修行の総体であり、 通常多くの人がヨガだと思っている色々な身体的ポーズはそのほんの一部にすぎない。

ほとんど知られていないであろうヨガの本体を丁寧に伝えようとする桂充さんの言葉には 参加者の感想にあったように、大学の講義の趣があったかも知れない。だがそれを語る 彼女の言葉は静かだが力強かった。そしてどんな時も純粋で嘘が無かった。それは 正しく表現者の言葉であり、彼女の上方舞と不思議な程に雰囲気を同じうするものであった。

(松崎)

「わたしのはなし」 第一幕

話す人:
相川高徳氏
タイトル:
魂のタイムトラベラー

このところ運慶展で冴え返る空気を揺るがしている金沢文庫は仏像のみならず 中世古文書の宝庫であります。 そこで長年古文を読み解いていらっしゃる 相川高徳氏の話を伺うことになりました。

古典、古文を理解するうえで、一番肝心な事は さかしい頭で探る事ではなく、 人の魂をみること、 映画「武士の家計簿」大ヒットからも窺える様に 昨今は 大壇上に構えた歴史物よりも 今生きている私と同じように生きていた彼らを感じることに 惹かれる方が多いのでしょう。 歴史資料を通して時空の旅に招待いたします。 多くの歴女・歴男のご参加をお待ちしております。

第一幕を終えて 感想

「古文書は絵を見るように眺めるんです。すると、書いた人がどんな人かわかるんです。

そして、それは結局、あなたはあなたでいいと言っているんです。」 金沢文庫に伝わる六千通もの手紙。 そのほとんどは鎌倉時代の無名の人の書いたもの。長年その解読にとり組んで来た相川高徳さんの言葉には、 自分の目で古文書を見続けた人にしか持ち得ない重みがあった。

ばおばぶの新しい企画 「わたしのはなし」は、この金沢文庫の地の歴史と、直に向き合って来た一人の人間の 話を聴く所から始まった。自らの経験に裏付けられた相川さんの話は、聴く人の心に深くしみ渡り、いくつもの 質問を引き出す。また、相川さんも、質問に応ずれば応ずる程活力を増し、話に迫力が生まれた。 参加者の誰もが、語ることと聴くことの楽しさを味わっていたように思える。

本物の対話の場を作ることを目指して生み出されたこの企画、上々の幕開けとなった。

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