葉月のつぶやき

友人の御夫君がガンによって7月の初めに亡くなられた。
彼は私と同じぐらいのお年だった。ばおばぶにもおみえくださったことがあるし、ほかでも何度かお会いしたことがあった。
彼を送る葬儀の式が横浜市内のあるカトリック教会で行われた。
雨の落ちる中たまたま休みの日に重なってもいたので初めてのその地へ出かけた。
会場に入ったその時から、なんだか明るいし、優しいメロディの歌が流れてもいるし、ちょっといつもと違うなあ、と感じてはいたが・・・

神父様の説教の代わりに、故人のメッセージが読まれた。一年前の五月、まだ病気を知らなかった頃、彼が韓国でのある国際的な集りで、発表したものだそうだ。「障害を持つ娘との三十五年間」。
より早く、より高く、より強く、という競争社会での価値観が当たり前、と思って生きてきた彼に、重度の障害を持った娘が生まれたというところから始まる。
その子を受け入れることが出来ない苦しい年月があった、この間のことは事細かに正直に書かれている。そして、7年目に熱心なクリスチャンでもなかったのだけど、ふと聖書の一場面をおもいだしたという。生まれつきの盲人を癒す場面である。

弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、 誰が罪を犯したからですか?本人ですか。それとも両親ですか」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業 がこの人に現れるためである。」  ヨハネ9:2~

彼はここから、娘と共に生きる道に入り始めた。
それからの彼の人生が変わったこと、
障害を持つ娘が教えてくれた今までの世界とは違う豊かさのこと。
彼が生きた、生き切った証として、まさにぴったりのものだった。

この御家族にはもうひとりの娘さんがおられる。私は個人的に存じ上げている、優秀で美しい娘さんである。このお嬢さんが遺族の挨拶という時に、父のメッセージを補いたい、とおっしゃって、語られたことは、世の父親たちに分かってほしい、母親神話に逃げないでくれ、という意味合いだった。

メッセージの中で、父から見た、母親と障害の娘のことだが、母の愛に救われる、と簡単にくくられていたのだったが、それを下のお嬢さんは、違うよ、お父さん、お父さんは知らなかったけど、お母さんだって、苦しんでいたんだよ。と叫んだのだ。

これには私は感動した。

そして翌日の式で、お母様が、メッセージの中では、下の娘について一言も出てこなかったということから、下の娘さんが、メッセージに於いてだけでなく、今までの人生でも寂しい思いをしてきたんだろう、それなのに、
心の中のことは家族間では一番わかりにくいと思うのだが、よくここまでわかってくれた、とお嬢様に感謝をなさっていた。
これにも、私は感動した。

下の娘さんは、また一言加えられた。
聖書の盲人の場面では、後で、イエス様が盲人を治しておられるが、うちのOOちゃんは癒されてないじゃないか・・・!と。
しかしそのあとで、でも、父の目が開かれたんだ、とわかりました。と続いた。
これも、ドキッとくるほどだった。

父の死といういわば大事件のその時に、その父を含む家族の一人ひとりが一生懸命に生きてきたということを、結果的に私たちに見せてくれた、そんな理想的な葬儀だった。
大黒柱を失っての、重度の障害を持つ娘さんとの生活という、この家族にとっては明らかに容易くないであろう新しいスタートに立っておられるのだが、
「人にはわからない、神様の愛は大きい」という テゼの歌がリフレインするように、穏やかな明るさに満ちて、幸せな気分をいただいてきた葬儀だった。