如月のつぶやき

「神々と男たち」 というDVDをもらったので見てみた。

1996年にアルジェ紛争でイスラム軍に誘拐され殺害された7人の修道士たちの
話で、2001年にフランスで映画化された。

キリスト教徒とイスラム教徒が仲良く平和に暮らしていたアルジェの小さな村での出来事。
アルジェ紛争という政治的な争いが過激派の動きを生み、次第に危険さを増していった時 、
フランス政府から帰国命令がでる。アルジェ軍も帰国するようにというのだけれど、
修道士等はそれらの命令で動くのではなく、皆で話し合うことにした。
最初は帰る、と言ってた人たちもいた。

ひとりひとりは違った考えが有り、それぞれが迷い苦しむ。
何度も話し合いを続ける中で、彼らの迷う様は、ひとりの人間が、
何のために生きているのかという、根源的な問いとの葛藤であるとわかってくる。
そこには、ドキッとさせられる言葉がいくつも出てくる。
彼らの話し合いは、農業をやり続け、医療をやり続け、祈りを続ける静かな日常の中で
行われてゆく。そして次第に答えは見えてくる。
ここに残る、ここで生き切る、という道だ。
その後、イスラム軍は来る。

戦争の理屈はいつも人を人ではないものとしてゆく。

歴史の流れの中で、私たちは、やはりデカルト・カント以降の流れの子供な
ので、その眼差しは信仰の世界に入っても染み付いている。
理神教という言葉がある。近代文明の始まりだ。理性が神にとって代わり、
科学を発達させる素晴しい原動力になったのだけど、
科学は道具の一つに過ぎない、ひとつの思考方法である、ということから逸脱し、
全てを委ねるかのようになった、その挙句、人は行き詰ったのではないか。
唯物論、無神論というものがもたらしたものは、人の孤絶ではなかったか。

近代文明の果てで、人は幸せをつかめなかったのではないか。

私たちは時代の子だから、この時代のプレゼントを頂くことが出来る、正も誤も。
個の与えられた能力で自己決断することは、いつの時代でも
人はしてきたはずだ。我々も、今持てる全てを利用して識別し決断しているのだろう。
全てを超えて大切なものがなんであるか・・・これは個の決断による。

聖霊というものについて今考えている。
アルジェのアトラス修道院には聖霊が降り、働いたに違いない。
彼らの選んだ死は彼らの世界観の結果であり,聖霊の導きだったろう、と
私の世界観は判断する。

人間というものは、いくら宇宙の果てまで知りうることになろうとも、
神と言われている存在を理解することは決してできない。
しかし、知ることはできる。
神が存在しないとしたら、この世界は在りうるのだろうか。
なんと生きがいのないことだろう、と私は感じる。

紀元前一世紀頃に書かれた知恵の書の11:22に、
”み前では、全宇宙は秤をわずかに傾ける塵、
 朝早く地に降りる一滴の露にすぎない”とある。すごい比喩だ。

イスラム教徒も本来は同じ神を知っている人々なのだ。