神無月のつぶやき

神無月とは、出雲での会議のために神様が留守の月とか、神無の無は”の”で神の
月なのだとか言われているが、
どちらにしろ神様が気になる季節なのだろう。
エネルギーの膨張のような夏が過ぎ、爽やかな秋の日々も直ぐに過ぎ去り、実り
の秋、枯れゆく気配、と
次第に人の心は沈思黙考を誘われるようになっている。

様々なたくさんの神様がこの世にはおられる。歴史、文化、地域で様子が違って
いて当然だろう。
それらの神々全てに共通し、人間には表現しきれないそれらの根源のような神的
な存在があると私は思う。
科学文明真っ只中(あるいは末期かも知れぬが)だからこそ、なにやら
目に見えぬ世界の不可思議な存在に惹かれてしまう。
そしてその存在を、深いところで納得している。

”祈り”というのはそのような神的な世界との交流手段である。

祈りたいと願ったことがあって、祈りにとっかかったことがある。
いろいろな形で試みて、挫折もして、
通り抜けて来て、何かが残っている。
しかし、祈っている、と言いながら自分の祈りに物足りなさ、
何か違うかも知れぬ、という思いが付きまとっていた。
そして今又どのように、どんな祈りをしたらいいだろうか、というところに
行き着いた。

スパイラルの動きのように私の心も
何度も何度もこのテーマ、あのテーマと繰り返しては、少しづつ進んできたようで、
そう、また祈りなのだ。

”祈り”をある種の自己催眠、ある種の洗脳と捉えるられるかもしれぬ。
宗教に関わっているから、と。
そういう面もあるかも知れぬ。しかしかまわぬ。

”祈り”は自分の側から自由意思でできる唯一の神的世界への通路だと思う。
様々な祈りの方法があるが、そのうちの一つの方法を今私は試し始めた。
つまり、人の行う他の様々な行為と同じように、練習をし、訓練をするのだ。
自分にあった単純な言葉を選び、繰り返し繰り返し、少しづつ、増やしつつ、
自分の時間の中に取り入れ、習慣としてゆく。呼吸と共にするようになるまで。
無意識の層に埋め込むように、繰り返し繰り返し・・・

呼吸をするように祈る人になれたら、と願っている。

これは決して変人になることではない、
人として普通に生きてゆくことを決して阻むものではない、
より普通に生きれるようになるのだろうと思う。
生きることがとても楽になるだろうとも思うのだ。

この気づきが今とても嬉しい。

なぜ神的世界への通路が欲しいのか?

これは心の奥にある憧れだと思う。