葉月のつぶやき

北海道の浦河町にある「べてるの家」を見学する「べてるツアー」があるのだが、
今年の夏のそれに参加することにした。

もう十五六年になるのかもしれない、ある専門雑誌でその家の存在を知った。精神病を扱うにしては
ひどくユニークなところだなあ、いいなあ、すごく新しい、と感じた。価値観の転換がある。
「妄想大会」を取り上げていたかもしれない。

昨年、あるサークルの友人が「べてるツアー」に参加した。今年もそのツアーがあるわよ、といわれた時、
私はそこへ行きたい、と声を上げた。
べてるの家は最先端だ!と感じている。
自分の問題にひと段落ついて、漂っていると、鼻先に何かが飛んでくるのだ。
関連の本を何冊か読んでみた。面白かった。いろいろなドラマの影にふっと垣間見えたのは、
ひどく当たり前な、人としての基盤だった。本当に生きようとしている。
百聞は一見にしかず。

如何に生きるか、というのは哲学だろう。哲学科に入りたい、といったら父親にだめだといわれ諦めた記憶がある。
如何に生きるかというテーマで青春時代に部活の発表をやった記憶も出てきた。
如何に生きるか、は常に課題だと老年期に入って又思っている。じっくりと見つめられる歳にもなったし、
自分を統合出来る頃合でもあるのだろうか。だから道を選べる、前より楽に。
統合失調症の人たちの生きる場に、自分が統合されているという前提で出かけるのは
おこがましくもあり、スリリングでもある。自我がぶち壊されることを強く望んでもいるので、それもありである。

「祈りと瞑想」を己の中心に据えたいと思っている。エネルギーは其処から来る、と思う。
自分を生かすため、場を生かすためのエネルギーである。マザーテレサが遥かなモデルとしてある。
自我がぶち壊されてもいい、そんな出会いもあるかもしれない、というツアーに行こうなんて、単に知りたがって
いるだけではないのだ。祈りと瞑想という作りつつあるベースを転がしたいようだ。
錯覚とか、直感、信頼、迷い、パラドックス等という言葉と共にくねくねと歩いて来た道があって、
その歩みは常に如何に生きるかと絡んでいた。その道程で祈りと瞑想を中心にして生きる、
という選択をやっとしたのだが、その上で又如何にという問いが続いてゆく。より繊細に。
幹、大枝、小枝と細分化してゆく。しかし(大木のイメージは今浮かんできたのだが)木だとしたら
種子の時から、如何に、は既に決まっているだろう。だとしたら、知っていて確めている、という感じかなあ。
いや、人間は人類はじまって以来二人と同じ人がいないのだ、木とは違った繁殖の仕方をする。
だから、個々が如何にを瞬間瞬間選んでいるんだろうと思うのだが。

青臭いと言われた何十年も前と同じように、その後もずっと青臭かったような気もするが、青臭い老年期かなあ。
言い換えてみればまだ何も知らない、というところへ、ひょいと落ちる。