睦月のつぶやき

久しぶりに、行ってみたい、と思わせるコンサートのチラシを見た。
場所も近く、暮れの休みに入っていた時なので、出かけた。

40年前にその人のコンサートをチューリッヒの学生街、殺風景なホールで
聴いた記憶がある。私の友人がドイツでの彼のコンサートを聴いて、
追っかけでチューリッヒまで来て、誘われて一緒に行ったのだった。
日本にいた時に、テレヴィで彼の演奏は聴いたことがあった。
演奏が激し過ぎてピアノを壊してしまっていた。
その革命性を若き私は好んでいた。
そのチューリッヒでのコンサートではピアノは壊れなかった。
途中で出て行ってしまったスイス人のお兄さんがいた。
演奏後に少しお話が出来たと記憶する。

その山下洋輔さんはもう70歳になられるとおっしゃるが、演奏前にチラッとお見かけ
した時に、こういう顔になられたのか!と感慨深いものがあった。
一緒に行った友人は、「大学の先生みたい」と言ったが、本当に、
知的で、静かで、それでいて柔らかさがあった。
一筋にこの激しいピアノを弾き続けてこられたんだもの、
極めた人々が共通して持つ何か、言ってみれば悟り僧のような、その何かを得られている。

演奏に入ると、次第に引き込まれていった。 私は音楽に関しては素人で、
それこそジャズのことなど何がどうなっているかは全く無知なのだが、
山下さんの演奏は、私には素直に心地よかった。演奏が激しくなると、
不思議な事に、とても安らいだ。心の開放感があった。
この開放感は、やっと出会えたか、とうれしくなるものだった。
演奏が穏やかになると、その音は、開かれた心の底のほうで、少しづつ記憶を呼び覚ましているようであった。

記憶と言うのは、私が生きてきた、感じてきた、心のときめきの語りであり、
美しい喜びばかりではなく、哀しみも、苦しみも、過去にあった全てのものが今や 
今を支えている位置におかれて収まってしまったのだから、全て愛おしいのだ。

山下さんはその”愛おしさ”を爆発する音の中に漂わせていた。

帰り道、ふっと、まだまだ自分が惚れっぽいのか、と笑いたくなった。
いや、言い訳をするようだけど、アートに惚れ込むということよ。

マヤの暦も一区切りがついたらしいし、スタートする、しきりなおし、という、時が
来ている。正月ですもの、今年は大きく舵取りをしたい。
いくら世の中が変形しようとも、諦めてはいけない、続けるのです、善きことを。

愛おしさ、というのは こんな時こそ大切に抱えてゆくものです。