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縄文の風だより

縄文の風だより

筆者紹介

ばおばぶで過去二年間、個展の朗読をやってきました。 古事記から始まり、万葉集、平家、源氏 などなど 芭蕉に至るまで、毎回 素晴らしい臨場感で聞く者をタイムスリップさせてくれた人です。

又『ばおはい』、『ばおれん」 という”ばおばぶ”での俳句、連句の師匠でもあります。 桃古という雅名です。芭蕉の専門家です。ちなみに芭蕉の雅号は 桃青でした。

縄文についても、専門家に”悔しい”と言わせるほど、よく知っています。

ばおばぶの 「わたしのはなし」 シリーズは、 松崎さんの習得された様々なノウハウを取り入れて、 これからばおばぶで育てていこう、という ”一万年のばおばぶの芽”なのです。

ばおばぶのオーナーである私、堀越信代と共鳴するところも多々あるということで、 他にも有能なスタッフが加わって下さいまして、今新しい動きがばおばぶで起きているのです。 先ずは「縄文の風便り」をお楽しみ下さい。

松崎好男のプロフィール

人と人が異なるままに調和して生きるにはどうしたらよいのかを考え続ける中で縄文に出会う。 「縄文の里」とも言うべき岩手県の遠野に三年間住み、自分の中の『縄文感覚」が 開けてくるのを感じた。遠野の風は縄文の風だと思った。

それ以来、縄文時代にあって現代に失われてしまったものは何か、 縄文の知恵を現代に生かすことはできないか、 というような観点から、縄文と現代を自由に行き来するエッセーを書いている。

「わらぞうりづくりワークショップ」というのに参加した事がある。わらぞうりを作るには 縄をなわないとならない。ぞうりの本体には稲わらを使うのだが、その稲わらを束ねるのが 縄で、縄のない方がいい加減だと、最後にギューっとしめた時に、縄は真っ二つに切れて しまう。実際私の縄は何度やっても切れたので、結局は講師になってもらった縄を使って ようやくぞうりらしきものが完成した。

縄をなうには、数本の稲わらを二つに分け、その二つの束を手のひらでより合わせるのだ。 私はとにかくその二つの束をねじり合わせるのだろうと必死によったのだが、わらの束をついで 長くすると、ついだ所がスルスルと離れてしまう。講師(農家のおじいちゃんである)がやると、 まるで魔法のように手の中から縄が生まれて行く。そして、何メートルの長さになっても、何人で 引っ張っても切れない丈夫な縄になる。どこにコツがあるのか、私にはさっぱりわからなかった。

後で聞いて知ったのだが、私は、二つの束を力づくでより合わせようとしていた、これが全く間違い だったのである。要するにそれぞれの束によりかかるように手のひらでころがせばよい、すると、 不思議なことに、よりのかかった二つの束はかってにからみ合い、離れなくなるのである。このコツを 会得し、初めて自分の手の中から縄が生まれた時、喜びが湧き上がると共に、何とは知らず 縄の秘密のようなものが見えた気がした。それはつまりこんなことだ。

よりのかかっていないもの同志をいくら必死により合わせても簡単にほどけてしまうが、よりのかかった もの同士なら自然により合わさって決してほどけない縄になる、どうもここに縄の秘密がありそうだ、 と思ったのである。

精神的に自立していない人間が二人揃っても、新しい何かを生み出すことはできないだろう。 せいぜい二人で楽しく遊ぶだけだ。その二人は協力の何たるかさえ理解できない。 そんな二人を無理に協力させようとすれば、二人の関係はあっという間にほどけるに違いない。

協力と言う関係性は、精神的に自立した者の間で成立する。あるいはそこでしか成立しない。 自立した人間同士が協力すれば、当人達すら思いもよらない何かを生み出すことが出来るだろう。 よりのかかった稲わらがからみ合えば強い縄になるように。そんなことを漠然と考えた。

縄を使いこなし、土器の模様にまでしていた縄文人達も、もしかしたら同じことを考えて いたかも知れない。人間は力をあわせなくちゃ生きて行けない。だが、それにはみんなが ちゃんとしていなくてはならんのだ。誰かに頼っては駄目だ。自分で生きて行ける人間が 集まってこそ力を合わせることはできるのだぞ。

人間の社会を維持してゆく知恵を表すシンボルとして縄があった、と想像してみたら どうだろう。あのように念入りに縄の模様を土器に施し続けた縄文人の心は、案外 こういうものであったのかも知れない。

また、こんなことも考える。 今でも祭りの時などに、男衆が「ねじりはちまき」をするのを目にする。鎌倉では人力車を 引く車夫がそれをしていて、なかなか粋である。あれは手ぬぐいをねじっていなければならないの であって、平らにたたんだものではちまきをしても、ストライキじゃあるまいし様にならないのだろう。 それではなぜ「ねじる」ことが必要なのだろうか。

細長いものを「ねじる」ことにより、「ねじる」前にはなかった強い力が発生する。「ねじ」という 革命的な道具が発明されるはるか以前から、人類はこのことに気づいていたに違いない。 「腕によりをかける」とは、「ねじる」ことで腕の力を強くする謂れであり、こんな言いまわしにも、 強い力を生み出す「ねじる」行為への、人間の信頼が表現されている。ねじりはちまきのよって立つ 基盤は、なかなかに深いのだ。

「ねじる」行為によって発生する力は、単に物理的な力だけではなく、見えない力、呪力でも あると、昔の人が感じたと想像するのには何の無理もない。ねじりはちまきは頭をキュッと締めて 気をひきしめるだけではなく、ねじりをかけた手ぬぐいの呪力により頭から邪気が入るのを防ぐ 魔除けの意味もあるのだろう。それなら、ねじった繊維をさらにねじり合わせた縄にはとても強い 呪力があると縄文人が考えたとしても不思議はない。

そう思った上であらためて現代の生活を見まわすと、そこかしこに縄の呪力を用いているものが 見出せる。神社のしめ縄、相撲の横綱、「立ち入り禁止」のロープ。犯人を縄で縛るのも 実は、犯人の体から邪悪なものが逃げ出さないようにするという意味もあるのかも知れない。 探せばもっとあるに違いない。例えば「綱引き」なども関係がありそうだ。

こうして、縄文人が土器に縄の模様をつけた理由が、又一つ見えて来るのである。もう言う までもないだろう。それは縄の持つ強い呪力を土器にうつし、土器の能力を高めるためであった。

縄の模様は縄文時代の早い頃(「早創期」と呼ばれる)には既に土器に施されていた。 それなら、縄をなう技術は一万年以上も前からこの列島に存在し続けたことになる。縄にこめた 縄文人のおもいが一万年の時を経て現代にまで伝わっていると思うと、一本のわら縄も 意味深長にみえているのである。

風の谷のナウシカ

『風の谷のナウシカ』の素晴らしさは今さら言うまでもなかろう。 オームを初めとする腐海の生き物達の造形、島本須美、永井一郎ら声優陣の熱演、 久石譲の音楽、『七人の侍』ばりのダイナミックでスリリングなアクション、自然と人間との あり方への深い洞察、一瞬の隙もないストーリー。 それらが総合されて、この作品は、単にアニメーションとしてのみならず映画としても最高級の 表現に達している。私はビデオで二十回は観た。あと十回ぐらい観たい。

と、まあこの程度のことは世の中に無数にいるナウシカファンにとっては当たり前の話だろう。 だが、私にとって当たり前でないのは、あの三月十一日の後、しきりにナウシカが思われてならない ということだ。実は、あの地震の後、ナウシカが気になったのは私だけではないらしい。民族学者の 赤坂憲雄さんも、しばらくの間『風の谷のナウシカ』を観続けたと書いていた。彼は何が気になったのだろう。 彼の心中は分からないが、私自身にとっては、それは少しづつ明らかになり始めている。

映画の終盤、風の谷に向かって暴走するビルのような巨大な虫類オームの大群を消滅させるため、 風の谷を占拠したトルメキアの女将軍クシャナは、人間型の巨大兵器「巨神兵」を用い、その口から 出る熱光線によってオームを焼き払おうとする。しかし、巨神兵は一度は光線を発射したものの、 それだけであえなく崩れ落ちてしまう。全く動ずる様子なく津波のように押し寄せる何十万、何百万もの オーム。

子どもたちが言う。「巨神兵死んじゃった。」「オオババ」と呼ばれる盲目の老婆が言う。「それでいいんだよ。 オームの怒りは大地の怒りじゃ。あんなものにすがって生き延びてなんになろう」

私は、崩れ落ちた巨神兵に福島第一原子力発電所の一号機から四号機の姿を重ね合わせていたのだ。 巨大な力を持つ人工物が、自然の威力の前には何の役にもたたない。そんな人間の無力をあの場面は 思い知らせる。そして、それはアニメでなく現実に起こったのだ。

さらに別のところで風の谷の老人の一人がクシャナに向かって言った。「あんたらは火を使う、そりゃわしらも ちょっぴりとは使うがの、多過ぎる火は森を滅ぼすのじゃ」

アニメの中で「多過ぎる火」は巨神兵として表現される。人間は必要以上の火を使ってはならない。この思想 からは、巨神兵も原子力発電所も全く同じものに見えるだろう。

「あんなものにすがって生きのびてなんになろう」

巨神兵そのもののような、あまりに強大なエネルギーを持つ原子力発電所は、安全か安全でないか、 経済的か非経済的かを論ずる以前に、人間が頼ってはならぬ「多過ぎる火」だったのだ。

「多過ぎる火」は「森を滅ぼす」。つまり自然を破壊する。そうなれば、人間もまた生きてはいられない。

ナウシカを私が今思い出すのはまずはそんなことを思いめぐらしたからだ。

また最近、もう一つの視点が浮かんできた。

作者の宮崎駿さん自身は、この作品を私が思う程に素晴らしいと評価していないようだ。この物語は、 暴走するオームの大群の前にナウシカが身を投げ出し、それによってオームは止まり、その後オームの 治癒力によって生き返るナウシカが、黄金に輝くオームの触覚の上を歩むという美しい奇跡の場面で 終るのだが、宮崎さんはこのラストが気になるらしい。ナウシカが自己犠牲を行った救世主になってしまった のが物語として浅いという訳だ。

これではナウシカはひたすらきれいな天使のような存在になってしまうが、本当のナウシカはそんなものではなく、 人も殺し、世界の闇を見つめ、自分も心の闇を持ち、真っ暗な闇をさまよいながら一点の光を求め続ける 苦しみに満ちた人間なのだ。恐らく宮崎さんはそんな風にナウシカを見ているので、原作のマンが『風の谷の ナウシカ』ではそのように描かれている。

作者にそういわれれば「ごもっとも」と引き下がるほかはないのだろうが、このごろ私はもう少し別な見方が 出来るようになった。「作者その心を知らざりけり」で、ときに作品は作者の意図を超えて一人歩きする。 むしろ優れた芸術程作者の思いもよらぬ鑑賞を生み出す力を持っているとも言える。

そこで私は安心して宮崎さんと異なる見方を提出するのだが、あの作品が全体として表現したのは、 ナウシカという一人の人間像ではなく、全ての人の心に住むナウシカだったのではないか、と言いたい。 つまり、あらゆる人がナウシカになり得る、と。

東日本大震災の直後、被災地の人々が見せた落ち着きとそれを土台にしたたすけ合い、そして、 今も続く数え切れない無償の援助活動。それは誰の心にも一人のナウシカが住んでいるという感慨を 起こさせるに充分な事実だ。いざとなれば、どんな人でもナウシカになり得る、少なくともその可能性は ある、とこの名作は語っている。あの震災が私に『風の谷のナウシカ」の新しい見方をおしえてくれたのだ。

今私達に求められているのは、ナウシカのような一人の救世主を待望することではない。私達自身の 中のナウシカ、自分自身の幸福と世の人々との幸福を同時に考え、さらに人間以外の生き物の幸福 まで考えて、それらの幸福のために利害を無視して行動してしまう心に気づき、ひとりひとりが独自の やり方でそれを生かすことである。

これは困難な道であろう。だが決して不可能ではない。『風の谷のナウシカ』は、そんな人間にみちあふれた 世界の実現に向かって私達が勇気ある一歩を踏み出すように励ましてくれているのだ。

宮崎駿さん、こんな見方はいかがでしょうか。

拒否する精神

拒否し続けの人生であった。最初からそうだったのではない。子供の頃はむしろ従順な良い子であった。今思えば最初の拒否は、三十数年前、高校の国語教師になった年、国語科の先輩教師から教職員組合への加入を勧められ、それを拒否したことである。先輩達は強く勧めたが、私は強く拒否した。私が途中で考えを変え、組合に入ったにもかかわらず、彼らの憎しみは増大する一方であった。私は最後には国語科の部屋を追い出された。

 次は今から十五年位前、別の高校でのことである。その年、私は受け持ちの二年生の国語の授業三クラス全てでテストを廃止した。教育基準法、学校教育法、指導要領は勿論のこと、その学校の内規にもテストをせねばならないというルールは無い以上、テストをするかしないかは担当教師に一任されている筈で、要するに成績を出しさえすればよい。現に体育や芸術では定期テストをやらずに成績を出しているではないか。国語も、論文や制作物や授業中の発表を総合して評価すればよい。「創造性」を柱にする自分の授業でテストは邪魔なだけだ。

 そう考えた私は、それに何の問題があるとも考えずにテストを廃止したのだった。私にとってテストをしないことの問題は、これまでテスト漬けになっていた生徒達がテストなしでも授業にまともに取り組むかどうか、まともに取り組んでくれるに値する授業を自分が創造できるか、だけであった。

 その一年間、学校は大騒ぎになった。私はいつの間にか、同僚教師の間で、勝手にテストを廃止したとんでもない悪者にされてしまっていた。何度も校長に呼び出され、「テストをやりなさい」と言われた。私は「やる必要がない」と答え続けた。何度目かの話し合いの席で彼の言った言葉を私は一生忘れないだろう。

 「同一歩調でやって下さい」

 この時私の目の前には、あの戦争中、皇居前の白い玉砂利の上をザックザックと歩んだ数知れぬ兵隊の姿がありありと浮んだのだ。

 ある行為が正当であるかどうかよりも、それが大多数と「同一歩調」であるかどうかが問題とされる世界、学校とはそういう世界だと私はその瞬間理解した。

 あの年、テストを拒否し続けた私は、同僚教師のほぼ全員から離反され、最後に刀折れ矢尽き、とうとう学年末のテストだけは行った。私の戦いは敗北に終ったのだ。

 この事件が大きなきっかけとなり、私は高校教師を辞した。教師であることをも拒否したと言いたいところだが、精神的にも肉体的にも疲れはてて教師を続けられなくなったと言った方が実情に近いだろう。

 その後も、私の生活には拒否がついてまわった。

 JRの改札に自動改札機が導入されたのは確か二十世紀末のことだったと記憶する。私はそれを見るやいなや、「こんなものは通れない」と感じた。今その理由を詳しく述べるのは避けるが、とにかく客が人間扱いされていないと感じたのである。会社の都合でこんな機械を導入するのは勝手だとしても、それが嫌いな人間まで無理やり通させるのは理不尽だ。

 私はどんな時も駅員のいる改札口を通ろうとした。多くの駅員は私を止め、「自動改札を通って下さい」と命じた。私は「通りたくありません」と応じた。それであっさり通す駅員もいたが、どうしても自動改札を通させようとする駅員も数多くいた。

 「自動改札を通らなくちゃいけないんですか」
 「いけないということはありませんがみなさんに御協力いただいています」
 「私は協力したくありません」
 「どうしてですか」
 「客がそんな質問に答える義務はないでしょう」……

 こんな問答が延々と続いた。駅員の態度があまりに強圧的だと駅長に抗議したこともあった。JR東日本の本社にも三度電話した。

 こういう人間を世の中ではクレイマーと言うのだろうか。しかし私は真面目だった。

 私の自動改札拒否の戦いは十年位続いた。この間、改札口は私にとって、いつ切ってかかられるか分からない真剣勝負の道場のような場所になっていた。ある駅では余りに大きな圧力を受けたために、何ヶ月かその駅を利用できなくなってしまったことさえある。

 ところが、この二、三年でJRの駅員の対応は明らかに変化した。何より駅員は自動改札機通過を強要しなくなった。そればかりか駅員によっては(特に若い駅員に多いが)切符を見せたり渡したりした時、「ありがとうございます」と言ってニコッとほほえんでくれる人もいる。接客としては当然と言えるこの対応に、駅の改札口という場所でようやく出会えたのが嬉しくて、思わず涙を流してしまったこともある。こんな気持のよい対応は、それ程までに、二、三年前までのJR改札口ではあり得ないことだったのだ。

 私は、それ以外にも様々なものを拒否した。銀行の預金カードを拒否した。スーパーやコンビニの会計時、商品にベタベタ貼りつける会計済みテープを拒否した。携帯電話、コンピューター、自家用自動車、クーラー、等々の現代生活に必須とされているらしいものを拒否した。(仮に買おうとしても買えないものもあるが)

 それにしても私はどうしてこんなに拒否をし続けねばならなかったのだろうか。

 私は思う、ヤマトの侵略に抵抗して最後まで戦った東北の勇者アテルイを。倭人の支配を排そうと戦ったアイヌ、コシャマインやシャクシャインを。戊辰戦争で薩長の侵略に対して抵抗した東北の諸藩、奥羽越列藩同盟を。

 日本政府の傲慢な押しつけに抵抗し、博士号を拒否し続けた夏目漱石を。足尾銅山鉱毒事件で唯一人民衆の側に立った政治家田中正造を。あの戦争中、息子を兵隊にとられまいとして病気にまでさせた金子光晴を。警察のヤクザ狩りの標的にされ、ステージから降ろされようとした弟を守り続けた美空ひばりを。

 抵抗の歴史に名を連ねるこのような人々と自分の抵抗を比べようというのではない。ただ、この人達が命や名誉や人間の尊厳を賭して抵抗した相手と、私が拒否をした相手との間には、何か深い所においてつながるものがあるように思えるだけだ。それは、端的に、「人を己に従わせようとする力」と言ってしまってよさそうだ。

 私は、自らの拒否する精神により、多くの人々と疎遠になったのを自覚する。しかしまた一方で、同じ精神によって、多くの人々と、深い対話をして来たのも事実なのだ。例えばあのテスト拒否事件の中で、私が最も深く本気で話し合ったのは、他でもない、私にテストを行わせようとした校長であった。拒否はその本質に於て対話を生み出す。

 自分が大真面目になって何かを拒否する時、私は、何か大きなものに自分が動かされているのを感じる。その拒否という行為は、自分にとって止むに止まれぬものなのだ。自分の考えでやっているのではないとさえ感じる。

 そうした時、私にはそれを拒否する必要があるのだろう。誰にとって必要か。私にとってだけではない、私を従わせようとしている相手にとっても、もっと大きな存在にとっても。その時自分は「拒否する」という一つの役割を果しているかも知れない。そして、その役割を果すことにより、深い対話を実現することが求められているのではあるまいか。

 人を己に従わせようとする力は暴力や権力の形で現れるとは限らぬ。「空気」という形で何となく他の人と同じ事をせねばならない気分にさせられることもあろう。むしろ現代ではこの方が多いのではないか。ある集団の多数が「拒否する精神」を捨てた時、その集団がいかに危険な方向に向かうか、この列島の人々は、あの戦争で思い知った筈ではないか。「空気を読む」ことが求められる社会などどこに転がるか知れたものではない。

 「人を己に従わせようとする力」は、ある時はひとりの人にとりつき、ある時は組織体にとりつき、ある時は国家にもとりつく。そして自らがとりついた者が、誰かを従わせるように仕向ける。ふり返ればその力が日本列島で発生し、増大を始めたのは、考古学的事実及び歴史に徴するに、弥生時代からであるらしい。あの戦争でそれは猖獗を極めたが、戦後下火になったように見える。だが見えるだけだ。それは今でもこの島の多くの人の心にとりつき、大変に微妙なやり方で人を支配している。少し注意して日常の会話を観察してみれば、至る所にこの力のシッポの先が見え隠れしているのに驚くだろう。この力から身を守る確かな方法は「拒否する精神」を持つことだ。

 日本列島に住む人々が今「拒否する精神」を持たなければ、原発を廃止することなど到底できはしまい。

 

優れた考古学者であった佐原真氏が書いていたのだが、日本と西洋には 建築の伝統上家の建て方に根本的な違いがある。日本は柱で家を支える (柱立ち)が、西洋では 壁で支える(壁たち)と。(小学刊『大系日本の歴史ー 日本人の誕生』) 私は、あらゆる家は柱で支えるものだと思いこんでいたので、その文章を読んだ時は 驚いたのを今でも覚えている。

ところで、日本語の表現の中には,「柱」を「重要なもの」の意味で比喩的に 使うものがしばしば見られる。「一家の大黒柱」 といえばその家の最も重要な 人物、つまり夫、父親のことである。(今は妻、母親の場合の方が多いかも知れないが) プロ野球で「投手の三本柱」といえば 先発できるエース級投手のこと。 「討論の柱」といえば主要なテーマのことである。

こういう表現が定着して来た背景には、言うまでもなく、「柱は大切なものだ」という 感じ方があった。 そしてその感じ方が「柱立ち」の建築伝統に源を発していることもまた疑いをいれないだろう。 柱が立ち上がったときに行う「柱立て」の行事は、実際の建築において柱がいかに重要であったかを 示している。柱が正確に立たなければ、その後いかに大工が努力しようと頑強な家はできっこない。 「柱立ち」の 建築においてはそれがイロハだと 私のようなズブの素人にも想像はつくのである。

この柱尊重の思想は、日本列島のなかでは時に明確な信仰の形をとることさえある。諏訪の「御柱」 がその典型である。神社の境内の 四隅に窮立する巨大な柱を見れば、否応なくそこに 大きな見えない力が生じているのを感ずるし、それが土地の人に他をもって代えがたい活力を与え ているのも理解できるのだ。

一方芸能の世界でも、柱が宗教的とまで言えなくても、一種の象徴的な扱われ方をすることがある。

現代の能楽堂は、 本来野外にあった能舞台を屋内に取り込んでしまったため、建築的にはどう見ても 必要ではない屋根と柱が屋内にあるという異様なつくりになっている。特に舞台正面に向かって手前 左側の柱「見付け柱」は 観能のこの上ない邪魔になるので、客の立場から言えば、こんな柱は 無くして、ついでに重苦しい屋根もはずしてしまえばよいと思うのだがそうもいかないらしい。能舞台の柱は 単に建築的な構造物として屋根を支えるだけではなく、能という芸能にとって何か精神的な又は 宗教的な必要性を持っているのだろう。

日本列島における建築が本格的には縄文時代に端を発しているのは 今更言うまでもないが、 縄文人の竪穴住居が、その最初から「柱立ち」だったという事実はまことに興味深い。何故かと 言うと、柱に対する「宗教的なまでの尊重は縄文時代すでにあったと考えても差し支えない事になるからだ。 実際、三大丸山遺跡の有名な六本柱(直径一メートルもの栗の木の柱が長方形に六本並んでいる)は 当時の柱信仰の存在を証明して余りある。

では何故日本列島の住居には「柱立ち」が選ばれたのか。例えば豊富な粘土を利用してレンガを作り、 「壁立ち」の家を建てることを、この島の住人達はどうして考えなかったのであろうか。

その問題と、この島が森に覆われていることとが無関係とは考え難い。この島に住んでいた人々が家を 建てようと考えた時、身の回りに無尽蔵にある樹木を使おうとするのは自然である。だが、単に 樹木を使うというだけなら、それを薪として使い、レンガを焼いてもいいはずだ。木があるというだけで 柱が立てたくなるものでもあるまい。

旧石器時代ニ万年以上もの間、遊動生活を続けていたこの列島の人類が定住の生活を始めた時、 自分を守ってくれる友人として木を選んだのは、それだけ深く木を信頼していたからではかなかろうか。

木の魂をさえ感じとってしまう人々であったからこそ建築材として柱を重んじ、そこに宗教的な意味をさえ 見出した。木の魂は柱となってもそのまま残り、家に住む人を守り続ける、「千年生きたヒノキは、柱になっても 千年を生きますのや」宮大工西岡常一の言葉だ。縄文人が聞いたら、「全くその通り」というに違いない。 柱の命は木の命そのものだ、と。

冬籠りまたよりそはんこの柱    芭蕉

別に何ということもない句だが、旅を終えて久々に家に戻った時の、あの懐かしい感覚はよく出ているだろう。 「やあ、元気だったかい」芭蕉はまるで友人か恋人にでも寄り沿う様に 柱によりそう。柱は彼を柔らかく受けとめ るだろう。芭蕉の鋭敏な感性の中には縄文の柱がそのままに生きていた。柱、それはまさしく生きものであった。

映画 「道」は フェデリコ・フェリーニ監督の名作である。力技を見世物にする 乱暴者の旅芸人と、その男の助手として買われた白痴の女の奇妙な愛の 物語だが、美しく切ないテーマミュージックと共に、ヒロインジェルソミーナの澄んだ 眼がいつまでも心に残る。

タイトルの「道」は、作品中に何度か現われる、旅する二人を乗せた自動車の 走る道に因み付けられたのだろう。その場面は、特に際立った特徴もない 平凡な道の 映像に過ぎないのだが、「道」というタイトルにより、ただの道が なんとなく、車上の二人の運命なり人生なりを暗示しているように見えるから 妙だ。

芭蕉の『おくのほそ道』が典型だが、「道」と「人生」を重ね合わせることや、 「華道」「剣道」のように、芸術、芸能、技芸の呼称に「道」をつけることは 極めて普通に見られる。道というものを単なる通路としてではなく、何らかの 精神性を持つものとしてみる、あるいは逆に精神的肉体的成長過程を道と して見る事は、日本列島に住む人にとって古くからなじんだものの見方であった。 東山魁夷の代表作「道」はただ一本の道が魂を持つ生き物のように描かれていて、 これはもう道の肖像画とでも言いたい程だ。少なくともこの列島においては、 道は全く人間の精神と直接かかわって来た。他の地域ではどうだろうか。 今のところ私はその問いについての明確な答えを持たないが、古代中国の 「道」や英語の「WAY」が豊富な精神性をもっていることから考えて、道の 精神性はどうやら人類に広く共有されていたらしいという見当はつきそうだ。

それはともかく、この列島において、道の精神性が意識されるようになったのは いつからなのだろうか。例えば旧石器時代、マンモスやナウマン象やオオツノシカや ハナイズミモリウシを追って遊動生活をしていた人々は特定の道を歩いていたのか、 それとも道なき山野を跋扈していたのか、よくわからない。けもの道を使っていた 可能性はあるが、いずれにせよ、道が精神的な意味を持つ程に特定の道を 使い続けたというこっとはなさそうだ。道が象徴的な意味を持つのはやはり人類が 定住を始めてからだと思う。

縄文時代には、土木工事により道を造った跡が発見されている。青森県の 三内丸山遺跡では、集落から海に向かって真っ直ぐに幅十メートルもの大道が 伸びている、しかもその道の西側にはずらりと墓が並び、さらに道の延長上、 はるか海上には一つの島が浮かんでいる。

ここまで条件が揃ったら、もうこの道をただの道とは思うほうが難しい。ただ者ではない。 どうただ者でないか。

例えばこんな風に考えてみたらどうだろう。其の島は村人の先祖の住む島で、村の 人が亡くなると、死者の魂は大道を通って島に行く。そしてその島からは一年のうちの ある時、先祖たちが帰って来て、大道を通り村に入る。村で数日を過ごした先祖達の 魂は、また大道を通って島に帰る。つまりこれは現在のお盆の原型である。

道の幅は十メートルという途方もない広さだ。(その幅で長さ百メートル以上も土を 掘りくぼめたのだ。当時の土掘りの道具は打製石斧しかない)大変な苦労をして そんな大道を作ったということは、その広さが要だということであり、その広さが必要だと いうことは、大勢の人間が一時に通るか、大きな物体が通るか、あるいはその両方だ と考えざるを得ない。そう想像してみるのが自然だろう。

すると、私にはこんな光景が見えてくる。先祖の乗り物としての大きな作り物を先頭に その後には、五百人とも言われる三内丸山村の人々が踊りながら従い、最後は作り物を 海に流し、先祖が海に帰るんを送る、という光景が。こんな「ねぶた」の原型と言うべき 祭りが三内丸山村では行われていたのだろうか。

こういうことはあくまで想像なので確かなことは何も分からないが、この三内丸山遺跡の 道がただの通路でないとだけは言えるだろう。とするなら、少なくとも、この列島の五千年 位前の人の中に、道に精神的なあるいは宗教的な意味を見出していた人々が存在 したことは確かだろう。

道の持つ不可思議な力、それは人をある世界へと導く力と言ってもよいと思うのだが、 縄文人も既にその力を感じていた。大変な労力を払い、情熱を傾けて大道を造った 三内丸山の人々がそれを示している。その力は、現代に生きる我々も、下町の ちょっとした路地に迷い込んだ時さえ、感じとろうと思えば感じとることができるのである。

流動する視点

縄文土器を見ていると時々不思議な感覚にとらわれる事がある。ある土器を、ひとつの方向 からだけではなく、あちらこちらから眺めたくなり、周囲を一まわりする。もう一まわり。 すると、こちらの動きにつれて、土器の方が動いているように見え始めるのだ。まるで踊るように、 様々な姿態を見せながら土器はまわる。それはもう、生きているようだ。

どのような土器もそうだと言うのではない。土器の中でも、どこが正面かわからぬような、しかも 立体的な造形の派手な、例えば、中期の「勝坂式土器」とか「曽利式土器」とか、 「焼町式土器」とかの中のある種の土器で、そんな事が起る気がする。

あの時も私は、そんな土器の一つ、「水煙土器」と呼ばれる、縄文土器中の傑作を見つめながら 近づいたり離れたり、その周囲をぐるぐるまわっていた。口縁部から立ち上がる粘土の曲線が、 うねうねと土器をめぐり、一部は輪を描く。まるで煙か雲のように柔らかく自由に、曲線は空間を 流れる。所々にあけられた穴は、その空虚さそれ自体が造形の一部として計算されているらしい。 ヘンリー・ムーアより四千年以上も前に縄文人はムーアの発想を先取りしていた。

そんな事を思いながら、土器のまわりをぐるぐるまわっていた私の頭の中に突然、天から降ってきた とでも言うようにある考えがひらめいた。

もしかしたら、これを作った縄文人たちも、この土器をこんな具合にまわりながら眺めていたのではないか、と。

例えば何らかの儀式、広場の中央で火がたかれ、その火の上にこの土器がかけられる、土器の中には 水やら魚やら木の実やらきのこやら、つまりスープの材料が入っている。スープが煮えるまでの間、 人々は火と土器のまわりを輪になり、歌いまわり踊りまわる。その間人々の目には土器は生き物のように 動いて見えるだろう。 いやそれはまさに生きものであり、同じく生きものである火と力を合わせスープを作り出す。その時、スープは ただの食べ物を超えた意味を持つだろう。

もしかしたら縄文人には、こんな風に土器の周囲をぐるぐるまわりながら見る習慣があったのではないか。 少なくとも、そういう風に見るべき土器もあったのではないか。そんな気がしてならないのである。

それはつまり、視点が一ヶ所に固定せず、流動するということである。流動する視点。

もし、そうした土器の見方が本当にあったとすると、事は単に土器の見方の問題だけにとどまらないだろう。 多分その見方は人間の生き方や考え方と密接にかかわっていたはずだから。

物事は一つの方向からみては何もわからない。前からも後ろからも右からも左からも、いろいろな方向から眺めて 初めて物事の真の姿は見えてくるのだ。話し合う時でも、自分の立場だけでなく、他の人の立場にも立つ ことが出来なければ正しい結論を出すことは不可能だ。

こうした多方向の視点――流動する視点――が縄文時代の社会の中で一般化していたと考えると、 あの時代の姿がよく見えてくるようだ。

流動する視点を持つ人は、相手を一方的に差別したり、悪者扱いしたりしないだろうからその社会に戦争は生まれない。 流動する視点をもつ人は、人間のみならず他の生き物の立場にも立てるから、当然自然破壊も起らない。例えば ダムなどは命の無差別大量虐殺にしか見えない。

つまり、平和と自然との共生という、縄文時代の特徴とみなされている社会の性格は、その時代の人々が流動する 視点を持っていたゆえに生まれた、あるいは、それを重要な一つの要因として生まれたと考えると説明がつきやすいのである。

では、何故縄文人時代の人は流動する視点を身につけたのか。狩猟採民として生活していた縄文人はその生活の 重要な舞台を森に持っていた。森の中を歩きながら獲物を探した彼らにとって森を見るときに視点を変化させ続けるのは 当然過ぎるほどに当然な話であった。一箇所から森を見る視点、そんなものは存在しない。あったにしても 森を知る上で大きな意味は何もない。森はその森を歩き回った者だけが、意味ある知見を得るように出来ている。 埋まり森が流動する視点をもたらした。

弥生時代になり、水田が人々の生活の基盤となると、こうした森に育まれた流動する視点の感覚はよほど弱くなったに違いない。 何よりも水田は少し小高いところに立てばその全体を見渡せるように出来ているので、水田を生活の場とする人々が、流動する 視点に寄って、歩きながら変化する相手を見、その変化の中に物事の真実を見出す、という感覚を失ってゆくのは争えない。 丘の上からのんびりと自分の田んぼを眺め、出来具合に満足する、こんな喜びが一般化したのが、水田が普及してからであるのは疑いない。 固定的視点が人々の通常の見方となり、一つの見方でものを見るのが当たり前になったのは、弥生時代からと目星をつけておいて 先ず間違いないであろう。人間が一つの見方にこだわり過ぎれば、その枠に入らない人間は愚か者か、場合によっては敵にもみえよう。 この日本と呼ばれている島々で、はっきりと戦争が起ったと考古学的に証明できるのは弥生時代からだが、その時代の 人々が固定的視点で物を見る習慣を身につけていたことと、「倭国大乱」と言われるほどに戦争を日常化させていたこととは 決して無縁ではあるまい。同様に、そのことと、はっきりした身分差別や支配被支配の関係が発生したのが弥生時代であることとは 無縁ではない。

では、縄文時代の流動する視点はどこへ行ったのか、消えてなくなってしまったのか。そんなことはないだろう。

縄文的思考は一度地中深く沈んでも、意外なときに意外な所から噴出する。丁度地下水が崖の下から湧き出すように。 かつて宗左近が繰り返し言った通りである。

日本列島で人類が作り出してきた文化の中には縄文よりもはるかの後の時代でも流動する視点によると思われるものを いくつも見つけ出す事が出来る。

例えば、絵巻物。この絵画形式は、一つの視点から全体を見渡す事は絶対に不可能で、見る物は、右から左へと次々と 視点をずらしながら、あるいは、巻物を巻きとりながら少しずつ見なければならない。

例えば、連歌及び連句。この世界文学の中でもまれな詩形式は、一人の句に他の人が句をつけることによって進行す。 句がつけられる度に描かれる世界は変化し続ける。そこに一貫したテーマは無い。

例えば池泉回遊式庭園。桂離宮にその最高の達成を見るこの庭園形式は、池の周囲にめぐらされた小道を歩き続けること によって鑑賞するように出来ている。鑑賞者は歩くにつれて次々と現われる、小さな谷川や峠や滝を一つ一つ眺めて行くが、 それらを全体的に眺める位置は存在しない。

例えば、松島という名所。この風景は、船に乗って島々をめぐる時に初めてその真価を発揮する。どこか一定の地点に立って 全体を眺めわたしても、恐らくその魅力の半分も理解できないだろう。

このように、日本列島の中でよく知られた重要な文化の中に、統一的なテーマなり構成美なりを持たず、時間の経過に 伴って、見方や見る位置や考え方が変化し続ける、という趣のものを見出す事が出来るのである。これらの根底には 流動する視点が共通して存在する。

我々の精神の基層にはこの流動する視点の思想が流れていて、それがこのような諸文化に際立った形で表現されてきたのでは ないだろうか。「いづくにもあれしばし旅立ちたるこそ目さむる心地すれ」と兼好に言われるまでもなく、今も旅行が好まれるのは、 心の奥深く置き忘れた流動する視点の精神が人々の心に時々顔を出すのであろう。 また、キリスト教のような一神教がこの島に根づきにくいのも、一つの立場に自己を固定する事を嫌う心が働いているからではないか。

流動する視点は過去の遺物ではない。時と所を得さえすれば、今ここに誰の心にも現れ得る。東日本大震災の後、 世界を驚愕させた東北の人々の「あすけあい」の心、あの驚くべき精神の美は、「人間は助け合わねばならない」というような 倫理的観念とは全く異質なものだ。いつの間にか相手の立場に立って物を考えてしまい、行動してしまう、本能的とも言うべき心の働きから 生まれているのである。その根ざす所に流動する視点があるのはもはや明らかだろう。あの時、誰もそれと気づかぬうちに 縄文の精神が蘇ったのだ。

村と墓

少年時代、私は東京の下町、墨田区で過ごした。その頃はまだそこかしこに放置されたままの空き地があり、子どもたちの格好の遊び場になっていた。カットグラスの町工場だった私の家の前も野原で、私は小学校から帰るや否やランドセルを投げ出して、日の暮れるまでそこで近所の友達と野球やカンけりをして遊んだ。両親共カットグラスの職人で朝から晩まで仕事をしていた。勿論子どもの相手をする暇など無かったので、遊んでいる間、私は親の顔すら見なかったが、今思うと、車も通らず、七・八軒の家に囲まれたその野原は、親としても安心して子どもを遊ばせておける場所だったのだろう。

その野原の隣は墓地だった。明源寺という寺の墓地で、多分、その地域の檀家の墓があったのだと思う。この墓地も私たちの大好きな遊び場だった。鬼ごっこやかくれんぼの時、調子に乗った誰かがその中にかくれたりした。墓地はコンクリート塀で囲まれていたが、そんなものは子にとって、遊びを楽しくする装置に過ぎなかった。誰があけたか分からなかったが、塀の中程には人一人が通れる程の穴が開いていて、子どもたちはそれをくぐる技術を競い合ったりした。

誰かが墓地に入ると、野原にいる子どもたちは大声で明源寺の住職を呼び、墓地の中の子をこわがらせた。勿論そんなことでは住職が来たりはしなかったが、時々本当に坊さんの姿が見える時もあり、そんな時、私たちは大急ぎで墓石を踏み台にしてコンクリート塀に上り野原に逃げ出すのだった。そんなスリルの味わえる、ちょっと不思議な場所、それが墓地だった。墓石を踏みつけることなど、楽しいだけで悪いこととも何とも思わなかった。子どもにとって墓地は親しい友だちのようであったとも言えよう。

縄文時代の中ごろ、竪穴住居を円形に並べる「環状集落」が一般化したことはよく知られているが、さらに詳しく見ると、例えば岩手県の『西田遺跡」のように、円をなす住居の内側に、その円と同心円をなして墓穴が数多くのこっている場合がある。その場合も中央は何もない空間になっている。つまりそういう集落は、中央に広場を持ち、その周囲に墓地が円形に並び、さらにその周囲に住居が円形に並んでいたことになる。

こういう村では、多分 公共の空間である中央広場と墓地とが一体化し、墓地も含めた空間で、儀式が行われたり、祭りが行われたり、話し合いをしたりしたのだろう。当然子どもたちはその中で遊びまわったであろう。

子どもは勿論のこと、大人も墓を踏んで失礼などという意識を持たなかったに相違ない。むしろ先祖を埋めた土を踏むことは、先祖とのつながりを意識させ、先祖に守られているという思いを強くさせたと思う。墓と実生活の場は一体であった。それは死と生が一体であったことも意味する。

時代が下がるにつれて墓と生活の場は離され、このような村が現れることはなくなった。

それだけ死者と生活を断絶する意識が強くなったと言えるのだろう。現代の生活をしている人間にとって、縄文時代のこのような死者と密着した生活を想像するのはとても難しい。

だが 私が子ども時代を過ごしたあの明源寺の墓地は、私にとって、まるで縄文時代のように死者と密接なかかわりを持つ場所だったのかも知れない。そう言えば、私たちの遊んだ野原は、まるで『環状集落」みたいに、広場の周囲を家がかこんでいた。私が今縄文時代にひかれてやまないのは、実は 案外こんな幼児体験に根ざしているのかも知れぬ。

えごま

またまた食べ物の話で恐縮であるが、今回は「えごま」について書いてみたい。

「えごま」を実際に食べたことのある人は東京や横浜にどれ位いるのだろう。十人に一人もいるのだろうか。この辺ではそれ程に珍しいものになってしまった。漢字では「荏胡麻」と書くが、「胡麻」とは異なる植物で、紫蘇の仲間である。栽培してみれば 一目瞭然、成長した葉や茎の姿は、青紫蘇と殆ど区別がつかない。違うのは香りで、「えごま」には紫蘇のような爽やかな香りがない。一種独特の癖のあるにおいがする。

東北では今でも「えごま」を日常的に食用にしている。「じゅうね」あるいは「じゅうねん」と呼ばれる「えごま」の実を軽く炒る。「えごま」は生では食べない。必ず軽く炒るのが大切で、火をわずかに通すことで紫蘇とはまた違った独特の芳香が立つのである。

炒った「えごま」を醤油とあえて衣を作りそれをゆでた餅にまぶして食べるのが「じゅうねもち」である。これは恐らく餅の食べ方としては最もおいしいものの一つであろう。その他、ごまあえと同じように青菜とあえるのもよし、また味噌とまぜて酒も加えて「じゅうねみそ」を作り、そば粉を薄い板状に伸ばし、三角に切り分けた「そばはっと」につけて食べるのも絶品である。「えごま」は今も東北の食卓を彩る重要な香辛料であり続けている。

ある縄文遺跡から植物の小さな種子が出土して、考古学会は「アワ(穀物の一つ)が出たか」と色めきたったが、「どうもエゴマらしい」とわかって失望したという話がある。アワなら腹の足しになる(つまり、稲作以前の主食作物の可能性がある)が「えごま」では腹の足しにならないと言う訳である。恐らくがっかりした考古学者は東北出身ではないのであろう。現代東北の食文化における「エゴマ」の重要性を知っている人なら、腹の足しになるかどうかにかかわらず縄文遺跡から出たことに、米が出たのと同じ位の驚きをかんじるだろうから。縄文遺跡から出た種子が事実「えごま」であれば、それは現代に至るまで三千年以上もの栽培の歴史を持つ、日本列島でも最古参の栽培植物ということになる。そして、現代と同様の重要な位置を えごまが縄文時代の食文化に占めていたと容易に想像できる。

私たちが今も味わうことのできる「えごま」を縄文人も楽しんでいたと思うだけでも愉快ではないか。

縄文の味噌

前回遠野の話を書いたら、遠野で食べたものを次々思い出してしまった。 例えば、遠野には「暮坪カブ」なる世にも珍しい蕪がある。この蕪はどう珍しいかと 言うと、普通の蕪のような球状をしていない。細長い。まるで小さな大根である。 遠野では本来これを漬物にして食べていたのだが、ある時誰かがすりおろして そばの薬味にした所、わさびとは違った独特の風味、香りがあり、しかもわさびの ように辛くないので蕎麦の繊細な味わいを台無しにしない。という訳でこの蕪を 薬味につけた蕎麦が店で出されるようになった。名づけて「暮坪そば」。 漫画『美味しんぼ』にも登場したので知っている人もいるだろう。

だが何と言っても遠野で食べたものの中で最も衝撃的だったのは「行者ニンニク」である。 山菜中の山菜、数ある山菜の中でも最もおいしいものの一つ、しかも生で食べられるのが 何よりで、その新鮮な味わいが何にも代えがたい。

「行者ニンニク」と言うくらいだから、ラッキョウとかニンニクのかの仲間だろうが、風味はそれ程 刺激的ではなく、爽やかで、一口かむとまるで山の清水のような澄んだ味がする。これに 味噌をつけて食べれば最上の酒のつまみになる。

という訳で、また酒の話になりそうなのを 土俵際でこらえて、今回は味噌の話をしたい。 『行者ニンニクの生味噌添え』。これを縄文人は食べたか。

先ず「行者ニンニク」は間違いなく縄文時代にもあったと思う。この山菜はアイヌ人も 『プクサ」と呼んで大変に重んじてきた。縄文遺跡から出土することは無いが、縄文時代 から日本列島に自生していたことを疑う理由はない。では、味噌のほうはどうか。

通常味噌作りで必要なものと言えば、大豆と、米こうじと塩だ。 これらのものは縄文時代にあったか。塩はあったことが確実である。というのは、製塩用と 思われる粗製の土器(海水を入れて火にかけ、煮詰めて塩をとるためのもの)が出土して いるからだ。そして、最近は縄文遺跡から米や大豆も発見され始めている。とすると、 縄文時代に既に味噌はあったかと思いたいところだが、やっぱり、米作りが一般的になった 弥生時代から味噌作りも始まったと考えたほうが、味噌作りにおけるこうじの重要性を考えると 自然なように思えてしまう。

もし米を使わない味噌が伝統的に作られていたら、稲作以前の味噌に迫れるだろうに。

そんなものにも出会わず数年が過ぎた。ところが遠野に来て見たら、又またそのものズバリの 代物に出くわした。

前回書いた山ぶどう酒を飲ませてもらった家の軒に、赤ちゃんの頭位の茶色い球状のものが 縄に吊るされて沢山ぶら下がっていた。これは何ですかと聞くと、味噌玉だという。大豆を 柔らかくなるまで煮て丸めて吊るしておく。乾いて固くなると共にカビが生える。それを塩水と 共に漬けておくと味噌になる。つまり自然に生えたカビをこうじとして使うわけだ。これなら 大豆と塩さえあれば米が無くても味噌が出来る。米作りの普及していなかった縄文時代であっても この味噌なら作られていたかもしれない。

味噌玉で作った味噌の味噌汁を飲ませてもらった。優しい味がした。あの味噌を行者ニンニクに つけて食べたら多分絶品だろう。

縄文の酒

前回桜の話を書いたので、今回は花見につきものの酒の話を書きたい。

縄文時代に酒はあったか。それが今回のテーマである。「日本酒」と言えば一般に 米で作った清酒を指す程に 日本列島で作られる酒の原料は米が普通であり、 また米で作った酒こそ、この地に最も古くからある酒だとも思われているのだろう。 現に、考古学者の佐原真さんなども、石毛直道さんという食文化研究の大家の 説を紹介し、日本列島で酒が生まれたのは米作りが一般的になった弥生時代からで 縄文時代には酒は無かったらしいと書いていた。これは本当だろうか。

縄文土器の中には、まるで「とっくり」や「ぐいのみ」のようなものもあり、それらはどこから どう見ても酒器にしか見えない。私のような酒好きは、ガラスケース越しに見ても、これで 一杯やったらうまかろうと、よだれを垂らさぬようにするので大変だ。米の酒はなくても、 ワイン、つまり果実酒はあったんじゃないか。とどうにかして縄文人を飲み仲間に 仕立て上げようとする私に、石手氏が鉄槌を下す。「日本には果実酒作りの伝統は 無かった」

かって 佐原氏の文章で上のごとき石毛説、つまり「縄文時代に酒は無い」を読んだ時は 泣く泣く縄文人と酒宴の席を同じうするのをあきらめたものだ。だが岩手県の遠野に三年間 住んでいた間に、そんなあきらめは全く無用だったのを知った。今では逆に確信している。 「縄文人は酒を飲んでいた」と。いささか、そう考えるに至った経緯を書いてみたい。

そもそもの始まりは、関根秀樹さんという縄文文化の研究家が、縄文酒として、山ぶどう酒の 作り方を書いた本に出会ったことであった。それに習って私も山ぶどう酒を作ってみた。遠野の 山中には山ぶどうはいくらでも生えているらしいが、それがどこにあるのか知らない私は、遠野の 町中の八百屋で山ぶどうを手に入れた。遠野という所は八百屋で野生の山ぶどうを売って いたりするとんでもない所なのだ。その山ぶどうを一つずつつぶして広口ビンに入れ、陶度を 上げるために蜂蜜を入れてふたをする。数日後、炭酸の刺激も爽やかな深紅色の山ぶどう酒が 出来上がった。

話を聞けば、遠野ではかつて山ぶどう酒を極当たり前に作っていたとのこと。その八百屋の看板 おばあちゃんの言うには、毎日欠かさず猪口に一杯ずつ飲んでいた。彼女の言うには「体にいいんだ」 そうな。その後今でも毎年山ぶどう酒をつくっている人にもであった。その人の家で「三年もの」を 飲ませてもらったが、まるでシェリー酒みたいな気品のある味がしたのを忘れない。 また同じ岩手県内のニ戸市の民族資料館では、かつて使われていたという、山ぶどう酒作り専用の 道具を見た。それは高さ一メートル位の木の箱で、最下部に蛇口がついていて、山ぶどうの実をその箱に 仕込み、発酵した山ぶどう酒を蛇口から取り出す仕組みらしい。

もう疑う余地はない、岩手県では昔から山ぶどう酒が作られていた。つまり日本列島にも果実酒作り の伝統はあったのだ。思うに佐原氏も石毛氏も岩手県の文化をよく知らないのではないか。どんな 大学者にも知識の穴はあるものだ。

とは言え、この岩手県の山ぶどう酒作りが縄文時代まで直ちに結びつく訳ではない。実物が 残っているといいのだが、いくらなんでも「三千年もの山ぶどう酒」が出土する可能性は無いだろう。 今後、考古学的な証拠が出てくるのを待ちたいものだが。例の青森県の三内丸山遺跡で エゾニワトコの種子が大量に出土したのを、酒作りの痕跡ではないかと見る説が出るに及び、 縄文の酒も俄然現実味を帯びて来た。山ぶどう酒は縄文時代にあるものだけで充分醸造可能だ。 縄文人はやっぱり飲んでいたのではないか。それも彼らの「赤」に対する特別な感覚を考えると 聖なる飲み物として扱っていたのかも知れない。まあ、本当の所は縄文人にしかわからぬが。 今夜は、現代の名酒を酌み交しながら、彼らの酒談義を聞くとするか。

さくら

今年の染井吉野はとりわけあでやかだったようだ。三月になって寒い日が続き、開花が 遅れていたが、四月に入り暖かくなった途端にいっせいに開いた。まるで地震と原発で 疲れた人間の心を癒そうとでも思っているかのかのような華麗さであった。こんな時だから 花見は自粛するようになどと、訳のわからぬ寝言を言ったどこかの知事がいたが、そんなことはない。 こんな時だから花見はどんどんすればよいのだ。たとえ自分は被災していなくても、あれだけの 被害の映像を毎日テレビで見せられ、原発のいつ果てるとも知れぬ脅威に不安を強いられている 人々にとって、ほんのしばらくの間でも心を休める時間はどうしても必要なのだ。思うにかの知事は 人の心の痛みを感じない人なのではないか。桜のほうがよっぽど人情を理解している。

ところで、現代、日本列島にある桜の九割方は染井吉野であり、一般にそれこそが桜の代表と 思われていて、テレビはその開花時期を開花前線で見せたりする。しかし、染井吉野は 桜の 仲間では新顔で、幕末に江戸染井の植木屋が彼岸桜と大島桜を掛け合わせて作り出した 園芸品種であることは知る人も多いだろう。西行や芭蕉が染井吉野を詩や句に詠むことは絶対に 無かったのである。一方、江戸時代までの桜の代表といえば、もちろん山桜であった。

山桜の質素な美を愛する人からは、新参者の染井吉野はとかく評判が悪い。日本列島中の桜を 見て歩いた小林秀雄もその一人だったし、また小林はそのエッセイの中で、桜守として知られた 佐野藤右衛門の言葉を紹介している。佐野は言う「染井吉野は桜とは言えない、桜の屑だ」と。

専門家にこういわれてしまっては返す言葉もないと小林は続ける。私もまた、この文章を初めて読んだ 三十年位前は、佐野の言葉に快哉を送り、以来花見と言うと、染井吉野以外の名木を見に遠くまで 出かけていた。あの花弁の量だけがやたらに多く、その割りに色味が貧相で、又、どの木も判で押したように 同じような姿で個性というものに乏しい染井吉野を二流の桜と感じ、花と葉のバランスが木によって 千変万化する山桜の控え目な美しさを一流と感ずるてんにおいて、私も人後に落ちなかったというわけだ。

百種類を超えると言われる桜の中の可なりの品種を実見した現在の私にとっても、染井吉野が 桜の二流品だという見方は変らない。それ以外の、数々の美しい桜を町中に植えたらどんなにきれい だろうかと今も思う。しかし一方で若いころのように単純に染井吉野はだめだと切り捨てきることは なくなって、もう少し別の見方も出来るようになって来た。歳のせいだろうか、それとも多少は成長 したのか。

世阿弥作の能の一つに、「西行桜」がある。自宅の桜があまりに美しく客がひきもきらぬのを嘆じて、 西行が、

花見にと群れつつ人の来るのみぞあたら桜のとがにはありける

と詠んだところ、桜の精が出てきて、 人が押しかけるのは私の責任ではないのに、「桜のとが」とは 何事か、と抗議した、という話である。

こういう現実離れした話がが名作として今に伝わる背景には「植物の精」をリアルに感じ取る感覚が 室町時代の人には まだ広く残っていた、ということがあるのではないか。 世阿弥の女婿金春禅竹には 「芭蕉」というやはり(植物の)芭蕉の精が登場する能がある。時代 が下がり江戸時代になっても、例えば松尾芭蕉の

夏草や兵どもが夢の跡

の句には、直接には言っていないが、「夏草の精が義経の最後を語る」という発想が見え隠れしている。

こんな風に、人間以外のものに魂を感じ取る感覚は古くからあるし、今でも、例えば「針供養」などという ことが廃れずに続いているのは、針を単なる道具として見ず、その中に魂を見るからではないか。

とするならば、私たちが今、花見をして楽しむのも、単に美しいものを見て喜ぶだけにとどまらないだろう。 私たちは心のどこかで桜の魂を感じ取り、心の奥底で桜と魂の対話をしているのではないか。 何故か桜は、人の心に語りかける力が植物の中でも際立って強いようだ。

話は変るがはるか昔縄文時代の人は花見をしたのだろうか。果たして縄文時代に桜はあったかという 問題が先ずあるが、それはしばらくおくとして、土器なり縄文人の作ったものの中に桜を造形したらしく 見えるものは無いようだ。また、縄文人とつながりが強いと思われるアイヌの人の目には、桜(アイヌ語で 言う「カリンパニ」)は花を賞でる木としてよりも。その樹皮を利用する有用な木として映っていたらしい。

すると縄文の人々ももしかしたら花見はしなかったのかも知れない。しかしそれは縄文人が美を解さない ということを意味しない。あの驚くべき土器を作った人達が美を理解しないなどあり得ないことだ。もし 縄文人が花見をしなかったとすれば、それは彼らが花の美に無知または無関心だったからではなく、 ことさら花の美を賞で花の魂にふれる必要が無い程、無数の者たちの魂にとりかこまれていて、それらと 対話するだけで充分だったからだと思われる。言わば彼らは毎日花見をしていた。

逆に現代人が桜に夢中になるのは、普段御無沙汰している魂の存在に、春ほんの一時だけでも 挨拶しておこうといった風な思いが心のそこにあるのかも知れぬ。そう考えると、染井吉野が一流か 二流かはどうでも良くなるのであり、とにかく、人々がそれを見て美しいと思い、とうの昔に閉ざされて しまった魂の世界に通ずる心の扉を、まるで天の岩戸でもあけるようにちょっと開いて、目には見えない世界 にふれることが出来さえすれば、どんな桜であれ、それが桜の功徳だということになろう。 その一瞬、私たちの心の中に縄文の精神はよみがえるのだ。

「たすけあい」

今回の地震で際立っていたのは、テレビに映る被災者の落ち着きぶりであった。 ある男性がインタビューを受けている。彼の淡々とした話し方を見て、とりあえず家族の命に別条は無かったのかとおもっていると、実はその人は、津波で妻を亡くしていたりする。

どの人も大体大差なく、とりみだして泣き叫ぶような人はいない。せいぜい涙をにじませる程度だ。

外国の人々は、この沈着冷静に強い衝撃を受けたらしく、新聞には連日のように外国からの賞賛の声が載った。人気ロックバンドのU2のメンバーの一人は、「畏敬の念をおぼえる」とすら語っていた。テレビを見た人だけではない、「被災者からおにぎりをもらった」「被災者が涙を浮かべながら笑いかけてくれた」「このような大災害の被災地で、夜間安心して外出できるほど秩序が保たれている所は初めてだ」などなど、救済活動を数多くこなして来た外国の救助隊の人々からも、何度も驚嘆のことばが出た。

外国人には限らぬ。その衝撃は、同じ日本の島に住む人間にとっても、程度の差こそあれ、決して小さなものではなかった筈だ。現に私は これまで、テレビのニュースを見てこんなに泣いたことはなかった。被災した東北の人達を見ているとどうしても泣けてしまうのだ。同情ではなく、何かとんでもなく崇高なものを見ている感じがしてである。このものは何か。

「日本人の礼儀正しさ」という言い方によく出会った。その見方に別段間違いは無いだろうが、私にはどうしてもそういって済ますことへの違和感が残った。あの落ち着き方は、「礼儀正しさ」とか「秩序を守る」というような浅い所からでているのではなく、精神のあり方の、何かもっと深い所からでている。それが私の直感だった。そのことを私はずいぶん考えたのだが、結局、その深い所にあるものは「たすけあい」の精神だろうと今は思う。

もう少し詳しく言うと、人間はたすけあって生きるものだという精神をみんなが共有していて、その安心感が心の奥底にあるからこそ、あのような窮状にあっても誰もが落ち着いていられる、ということだ。私はかって、岩手県の遠野に三年間住んでいたことがある。そこで感じたのは、遠野の人々と自分は、地集団に対する感覚がものすごく違うということだ。あの地の人々には「個」で生きるという感覚があまりない。「個」を何よりも重視する私から見ると、むしろ集団が一人の人間だと言ってしまえる程に地域社会の一体感が強い。だから、たすけあうなど当たり前のことで、地域の中の誰かが困っているのは、例えば一人の人間の体の一部が痛むようなものなのだ。

「たすけあい」は東北の人にとってまったく日常的な行動なのであって、彼らは年がら年中たすけあって生きているのである。お隣の家にとれた野菜をあげる、など、「こんにちは」と言うのと同じ位普通のことだ。

私はテレビに出て来る東北の被災者の落ち着きの向こう側に、この「たすけあい」の感覚を明らかに看取したのである。私が遠野で毎日みていたあの岩手の人たちなら、こんな大災害の時ですら、こんな表情をしこんな風に話し、こんな風に行動するだろうと納得できる顔であり、話しぶりであり動作なのである。 彼らはいつもと変っていない、私が見ていた時のままに。

あえて言う、あの窮状における、あの落ち着き方は「東北的」なものなのだ。「日本人」全般のものではないのである。仮に東京でまったく同じ災害が起ったと想像してみよ。地域のつながりの薄い社会で丸裸にされた人は、ただ恐怖におののくほかはないであろう。日常生活での「たすけあい」に慣れていない人が、どうして非常時に本当の「たすけあい」などできるものか。

縄文時代の中ごろ、東北地方のあちこちに大型竪穴住居だけで構成される集落が現れた。

通常、竪穴住居と言うと、一世帯がせいぜい四・五人が住む程度の大きさのものなのに、これは三世帯、十数人が一緒に住む家で、それが何軒も集まっているムラだ。その集落から見てとれるのは、何より、多くのの人間が寄り集まり,肩よせあい、たすけあって生きてゆこうという明白な姿勢である。 東北の「たすけあい」の精神には五千年の年期が入っている。

事は日本の国の中だけにとどまらない。今世界全体にとっても、この「たすけあい」の精神は大きな意味を持つだろう。東北の被災者の姿を見て世界の人が感動したのは、自分が忘れていた「たすけあい」の精神を彼らの立ち居ふるまいのどこかに感じていたからにほかならぬ。

「たすけあい」。それはもともとひ弱な存在に過ぎない人類が、厳しい自然の中で生き抜くために、長い時間をかけて見につけてきた知恵であるに違いない。ところが人間は、豊かになり、強くなればなる程、この知恵をどこかに置き去りにしていたのだ。それを取り戻すことこそ、今私たちに課せられた仕事なのである。

その意味で、今回は、空前の深さと広がりを持って、東北の地から世界に向けて、地球の未来を変えうるような重要なメッセージが発信されたとも言えるのだ。東北がその歴史上初めて、世界に強いメッセージを発した。それも五千年の蓄積に裏付けられたメッセージである。

円の思想

東北の地震と大津波があった三月十一日から四五日経った頃だったろうか、被災地の状況を 報道するテレビに、ある避難所の様子が映された。学校の体育館らしい広い建物の中にたくさんの 人がいる。その一角に、十数人のお年寄りがパイプ椅子を円形に置き、車座になって座っている姿が あった。話し声は聞こえないが、いずれ、自ら受けた災難、家のこと、家族のことを語り合っているに 違いない。

私はそれを見て思った、ああ、この人たちは、こうやって自らの心を癒しているのだ、こういう風に 自らの心を語り、それを誰かに受け止めてもらうことが、苦しい時に一番効果があることをこの人たちは 知っているのだ。人間が助け合うとはどういうことか本当に心底わかっているのだと。

その時、私は目に泪があふれるのを覚えた。そして、縄文を思った。

縄文時代の中ごろ、東北から関東、中部地方にかけて、家を円形に配置する「環状集落」が 一般的になったことはよく知られている。その頃の家の形自体も円形である場合が多かったのであり、 そこには円という形に対する縄文人の考え方が見てとれるように思える。

円周上に集落の家のすべてがあるということは、全ての家の人が中心から等距離にあることを意味する。 要するにそこにいる人間が対等である、もしくは人間同士のみならず、人間と他の存在も対等であることを 示す。大雑把に言えば縄文人はそんな風に考えていたのだろうし、それは、端的に「円の思想」と言って よいだろう。

あのお年よりたちがこの未曾有の大災害に際し、多分誰にも教えられずにとった車座の座席の形に、 私は数千年の時を経てよみがえった「円の思想」を見た気がする。人間は対等であってこそ助け合えると 言う感覚が、助け合わねば今この時を生きるのさえ困難だという瞬間に、彼らの心の中で活動したのではないか。

縄文の魂は決して死んではいない。それは時と所を得れば、いつでも現代に出現する。東北は縄文時代を 通じて 安定した、そして高度に発達した文化、社会を保持していた。その地に、今ひょっこりと 縄文の魂が顔を出す。不思議なことではないのだ。

縄文の風にふかれて

土器、土偶、数々の驚くべき美を創造した縄文時代の人々。

彼らはまた、自然と調和し、争いを好まず、 対等な関係を基調とする社会を保持していた。

今、彼らが私たちに語りかけるものは何か。

現代を吹く風は縄文の森を吹いていた風でもあるのだ。

風の中の縄文人の声を聴こうではないか。

私たちのとうに失ってしまった何かがそこにはあるに違いない。

それはきっと現代の闇を照らす青白い灯になると思うのだ。

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