神無月の書き散らし

米ペンシルバニア州の最高裁判所が、カトリック司祭による過去70年の同州内での少年(少女は少ない)への性的虐待についての報告書を公表した。400名以上の関与、被害者は千人以上だった。教会側が隠蔽までしていたと! ほとんどが既に時効となっているようだが。

数年前だが、今の教皇が選出されて、彼はすぐに、性的犯罪を犯していた司祭たちをやめさせたことがあった。拍手をしたものだが、それも一部だったのか・・・トホホです。世界中を調べれば当然件数は増えるだろう。聖であるべき者が性にとらわれ、それも少年少女に対してであるところが、全く許せない。どう考えてもハレンチである、という感想は当たり前で、私はカトリック信者であるので、とにもかくにも恥ずかしく思っている。

ところが、ある人がこの話題になったとき、「さすが大宗教、ワハハハーー」と笑った。

又ある人は、カトリックだけでなく、日本にだって、他の宗教にも、武士にも少年を身近に置く、つまりその対象にしていることはあったよ、と。

男社会のサガが根底にあるのか?

カトリックに関して言えば、2000年も続いている世界宗教である。そう大宗教なのだ。ギリシャ・ローマ、ケルト、ゲルマン等ヨーロッパのほとんどすべての文化、宗教をてなずけ、取り込み、自分の力にしてきた経緯がある。ヨーロッパのこの2000年来の文化はキリスト教文化だけが花開いていたのではないか?そして世界史の表の方では、教会はなんとまあ悪行の限りを尽くしてきたことだろう。世界制覇を狙う専制君主のようだった。

しかし悪の世界と分かっていても何故その神を信じる人々がいるのか?私もその一人だが。その大帝国の暗闇の中に、聖なる何かがほの隠れ見える、と私は感じている。それに惹かれるのだ。光は暗闇があってこそ輝くのか・・・? パラドックス?

ヨーロッパのモノを深く考える人たちだと私は思うのだけど、例えば、ゲーテ、ドストエフスキー、ユングなどは 聖なるもののあるところには、必ず悪なるものがある、つまり神と悪魔はほとんど同居しているものと考えていたようだ。

カトリック教会の大伽藍の中に悪魔の一匹や二匹、そこここに隠れているかもしれない、という見解を私は曖昧ながらも本当らしいと思うのだ。でも、悪魔相手に何ができるんだ?しかしせねばならぬのはそこなんだ。問題はそれなんだ、と今やっとわかる。

悪魔から戦いを挑まれたイエスは 次のように答えている。

x石をパンに変えろ、と言われたとき・・・「人はパンのみにて生きているのではない、神の
御言葉に よって生きるのだ」

x屋根から飛び降りろ、天使が助けてくれるだろう、と 言われたとき・・・ 「あなたの神である主を試してはならない」

x私を拝めばすべての地上の栄華を与える、と言われたとき・・・「あなたの神である主をおがみ、ただ主に仕えよ」

以上でのイエスの答えから引き出せるのは、 必要なものを望む時、神様の庇護を望む時、ちょっとした悪で大きな利益が得られる、というような時に、人は一度立ち止まれるか?自分の心をほぐし客観視しているか? 良き判断をするかどうか?なのだ。 固まっている己をほぐす、心を開く、その行為は革命である。 しかも時は今なのだ。

対峙するこの世界は、理路整然とはしていない。まず理不尽がまかり通り、混沌であり、摩訶不思議な部分まである、どうしたってわからんことはゴロゴロしている。そして人それぞれは全く違う生い立ちであり、経験であり、違う感性を持っているので価値判断は違って至極当然。そして、人は忘れやすく、又頑固。だから共通部分で取り決めがあるのもこの世の秩序のために必要なこと。

先月、辺見さんの言葉を借りて書いた中に、「人の嫌がることはするな」「人がしてほしいことをしよう」という王道があった。 これですね、まずは。