長月の書き散らし

7月に精神科医の齊藤学先生がばおばぶに来て、おはなしの会をしてくださった。何気ない自己紹介からテーマはいろいろ広がり、彼らしい切り口のたくさんのエピソードはとても面白かった。その時に、生い立ちの記を書いてみないか、と彼は私をそそのかした。

彼とは奥様のご縁で40年ほどの昔からお宅にお邪魔したり、飲んだり、セミナーに参加したりの付き合いが有り、私の半生の中身を知られていたので、こんなわがまま娘のわがまま人生でもいいのか、と聞けば、いいとおっしゃる。では、とやる気になった。

生い立ちの記を書くまでいかずとも思い起こし語るだけでも、自分を知るためには助けになると、気が付いてはいた。
20年来参加してきた親の会では 生じている問題を考えるにあたってどうしても過去をさぐらねばならない。子供の問題は親の問題であり、それはそのまた親の問題でもあるとだんだんわかってくる。
親鸞によって若い坊様達のために考案された内観は徹底してのその追求だ。自分と母とのかかわりを、父との関わりを年齢を追って具体的に記憶を掘り起こすものだ。
本で読んだところでは犯罪者の更生にも素晴らしい効果を上げているようだ。永山邦夫という人に関する本では、犯罪人に作られてゆく生い立ちが語られ、自ら語ることによって癒されていく様子が読み取れる。

学生の頃からの体験は軽く書いたことはあるが、そうか、あれも面白かったが、ああいうのをちょっと本腰を入れてやってみるか、という気になった。

そして記憶のある三歳の頃から書き始めたところ、これが、書くこと自体がすごく面白いのだ。次から次へと記憶が呼び起こされ、スライドを眺めるように自分の過去に向い合うのだ。その三歳児の自分は今の自分と何の差もない、つまり内面において、気持ちの上において、ほとんど変わっていないことを発見する。今の私がそこにいたのだ。嫉妬したのだ、寂しがったのだ、おもしろがったのだ、希望したのだ、他者を、大人を今のごとくすこし斜めに構えて眺めていたのだ。

幼い子供にはこんなことは理解できないであろうと考えたら間違いだ、とか幼い子供を一人前の人間として扱うべきである、とはなんとなく感じてはいたが、今改めてそう思う。孫を持つ身になってひしひしと感じる。彼らの目は私と対等に向き合っているではないか。私の心が読まれているのではないか。

幼児期に体験する印象的な言葉や出来事は心の中に深く入り込む。その子の人生の中心となったり性格を作ったりするかもしれない。わたしの場合はそうだったようなのだ。

こんなことが生い立ちの記を書いているうちに見えてきた。

  
夏去りて又夏去るや蝉の声    ざくろ