長月のささやき

半世紀

大学一年生を終える春は弥生
なんとなく物足りない日々
「行動せよ」と聞こえてくる声 
行動ってなあに??
では、歩こう!と決めた19歳。

日本を横断しよう
太平洋側から日本海側へ 歩いて渡ろう、

三浦三崎の海の水を、日本海にそそごう、

リュックをしょって国道を歩き、山道を登り降りし 二週間、
直江津の海辺に友人と二人でたどり着いた。
初めて見る日本海の波は激しく色は濃かった。

瓶に詰めた三崎の海の水を日本海へ注いだ。
~~海の水はつながっているよ、ホリの馬鹿あああ~~
二人で大笑いをした。

直江津の教会に泊めてもらおうと思って手紙を出しておいた。そこはかなりボロな
日本家屋でトイレの臭いが漂っていた。イタリア人の神父さんが鍋焼きうどんを
ご馳走してくれた。そして、案内してくれたその晩の宿は妙高温泉町にある
小さな教会。お留守番が笹川さん、暖かい、しっかりとした田舎のお姉さん。

こたつを囲んで三人で夜のおしゃべり、
「あなたは波乱万丈の人生を送りますね、そして
とても素晴らしいお子さんが一人生まれるでしょう」と
彼女は私に言った。

21歳の夏、90日間世界一周旅行に参加した。
観光ビザがまだなかった時代で文化使節団として夢のような旅行だった。
三十人ほどのグループは学生は少なめで社会人も年齢もいろいろ混ざったカトリックの
グループだった。宿泊はホームステイとユースホステルがほとんどだったが、
アメリカ、モントリオールの万博、パリはパリ祭を楽しみ、ドイツは青年省のお客となり
各地を巡り、あちこちでお偉いさんからのレセプションに招かれ、ローマでは
ヴァチカンで当時の教皇パウロ6世の謁見もあった。教皇様の前で振袖姿で炭坑節を踊った
のだ。行く先々で、頭には入りきれないほどの新しいことがどんどん目の前にあらわれる。
好奇心が最大限に膨らんで、だんだん満杯になって、理解、整頓が不可能になってきた。
もういいやあ~淡々と見るだけにしておこう、と切り替え、楽しんだ。どこでも食べ物は
美味しかったし、どこのビールもワインも美味しかったし、地球上どこにでも住めるんだ、
と確信し、帰りたくない、とダダをこねながら帰ってきた。
帰り道のインドでカルチャーショックを受けた。初めて見るアジアの国で、しかも貧富の差
は99:1だという。牛の目も人の目も同じ哀しみをたたえていると感じた。しかし
タージマハールの美しさは、世界一かも知れないと思った。

帰ってきてからは日本を出ることをいつもどこかで考えていた。大学卒業後すぐに交通事故
にあい、一年ほど治療やリハビリだったのだが、思いがけずきちんと示談金が手に入った。
それを基金としてヨーロッパに向かうことができた。山が大好きだったので、一番気に入っ
たスイスヘ24歳の冬に学生としてゆく。
チューリッヒの大学に通い、バイトをしながらに暮らしていた頃、日本語の本は貴重で、
文藝春秋が時々手に入ってたが、ある時、そこに遠藤周作の小説ではなくて、ドキュメント
のような記事があった。「秋田の聖母」
シスターS という人が、木彫りのマリア像と会話をし、そのマリア像が数年にわたって
何度も涙を流した、101回!
今の世の忘恩と、天罰の警告。
マリアからの伝言は当時全聾のシスターSを通してのみ。
このシスターSというのは笹川さんであろう、と友が電話をしてきた。
あの妙高で出会った笹川さんはシスターになりたいとあの時おっしゃってたではないか。

スイスで私は恋におちた。ショパンのワルツがその懐かしい眼を私のところへ連れてきたのだ。
吹雪の夜だった。26歳で母となった。カレンダーの絵のように美しいスイスの地での幸せな
日々だったが、そのスイス人の恋人は、娘が三歳の時、心臓発作で世を去った。
彼の家族に訴えられた私は逃げるようにして娘を連れてスペインへと移り住み、
地中海のほとりコスタ・デル・ソルで海とその向こう側のモロッコの山を眺めて暮らした。
ここからは良心に逆らった生活をしている人の見る夢、というのをしばしば見ていた時期なの
だが、あるドイツ人と同棲していたためだが、歯がみんな抜けてしまって口の中でばらばら
満杯になる夢なのだ。
そこからアフリカへ、ドイツへ、そして遊びに行ったバーゼルのカーニバルのパーティ会場で
その男と喧嘩し、堪忍袋の緒が切れて、彼がトイレに行った隙に、彼の車で逃げ出した。
娘をあずけてあるジュネーブのインターナートへ行くよりは、チューリッヒの友人宅へ今は
行くべきだと、アウトバーンの駐車場で頭を冷やして判断し、ゆっくりと2.3m先も
見えない吹雪の中を後部座席に愛犬シェパードのパコをのせたまま走り出した。
友人は真夜中をだいぶ回ったころに到着した私を奥さんと静かに迎えてくれて、
話を聞いてくれた。そして、Nobuyoはこの四年間で今夜一番いいことをしたね、と言ってくれ
た。そしてそれから私が寝り込んでいる間、警察と連絡をして、私が車泥棒として
訴えられていること、既にスイス人とトラブルのあった外国人として、外国人警察のブラック
リストには載っていること、だから、もう捕まるか、スイス国外に出るかしかない、
ということがわかっていた。
友人は一文も持ってない私のために、その日の数時間後の東京行の飛行機のティケットを手配
してくれていた。ジュネーブの娘のことは心配するな、僕が責任を持って見守るから、
と言ってくれた。彼は娘のゴッドファザーなのだ。
34歳の弥生は啓蟄のころだった。
スイスエアーの機体はボロボロの私を載せて、10年間のヨーロッパ生活を終わらせた。

故郷へ戻ってきて一歩からの出直し。家族を作る、一見平和そう、しかし我が愚かさは
知らぬうちに罠を作り続ける。51歳で自らの掘ったそのどん底へ落ちる。
傲慢という罪の過酷な仕打ちは己に帰ってくるのだ。24歳の娘の自死だった。
3年後に夫の死、その数年後に同居の義母の死と慌ただしく時は過ぎた。

61歳の春、スペインへと再び向かったが今度はサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼。
3人の息子たちと残され、カフェを始めていたが、生活の中では泣けなかった、
大泣きをしたかったので巡礼という未知へと向かった。800kmを50日で歩いた。
これは素敵な体験だった。

カフェを始めるにあたって、世界旅行の時の友人の息子さんが大工仕事を引き受けてくれた。
学生の時からの曖昧だった私の夢がようやくここで具体化してきたようだった。
全ての体験がカフェという生き物の中で今生かされている。

2011年夏、東北へヴォランティアとして向かうには65歳の体力は無理と判断。
私は広島へ向かった。9日間の祈りと黙想の日々を過ごすためだ。
蝉と蛙の合唱の中、古い修道院での静かな時間だった。セッションのない殆どの時間は
祈り三昧で過ごす。あるセッションで、我が人生で一番悲しかった時を思い出していた。
娘がビルの屋上から飛び降りた、即死だ、との電話、遺体の確認のため警察署の廊下で
待たされていたあの時だ、すると突然、

~~イエス様がスーパーマンのように空を飛び、空中の娘を救いあげて、こちらへ飛んで
くる、私の目の前に降り立った、
娘は彼の腕の中で見たこともないような美しい笑顔をして私にほほ笑みかけた、
イエス様と娘は天に帰っていった~~~

娘の死から既に14年経っている、どん底から抜け出すために、様々な回心の試みをしてきた
のだが、少しづつ分かってはきていたのだが、哀しみが私の身体の奥の方をずーっと冷やし
続けていたのだ、それから、一気に解放されたのがこの時だった。
幻想?といえば言える、しかしこのはっきりとしたイメージが突然私におとづれたのだ。
娘の魂は救われている、という確信を得た。
これは私を救った。
これっぱかしも信仰心なんて持っていません、とよくほざいたのだけれど、もう降参だ。

喜びに満ちてルンルン気分で家路に着いた。そして一ヶ月後、ガンを宣告される。

神様、なんですか、今度は?と、笑いたくなったほどだ。

手術の日取りが病院の都合で二ヶ月先となったのはラッキー?だったと言える。
私はシスター笹川のマリア様に会いたくなった。シスター笹川に
娘の死を手紙で伝えたとき、私のことを覚えていて下さって、「秋田の聖母」という本を
送ってくださった。シスター自身はもう秋田にはおられないことも知っていたが、
その涙のマリア様に会いたかった。

本来なら一般客は宿泊の受け入れをしない11月であった、しかし
神戸から東北へヴォランティアに来てらしたシスターが泊まることになっていたので、
私もかろうじて泊めてもらえることになった。予約も何もせずに飛行機に乗ったのだ。
二泊三日、秋田の高原でマリア様と過ごした。神戸のシスターTと きりたんぽをつつき
ながら、私の人生を語った。
シスター笹川が昔、「素晴らしい子が一人生まれますよ」とおっしゃったけど、
私は四人子供を産んだ、どの子だかわからない、といったところ、シスターTは
すぐさま、「お嬢様に決まっているでしょ」とおっしゃった。
その瞬間、私も、そうだ、と納得していた。
「あなたとイエス様とつないでくれたのは彼女でしょ」・・・なんというパラドックス!

秋田から帰ったら、自然と、私は手術はやめようと思っていた。
病院へ行って、その旨を伝えた。私に向かって、
このままだと5年後には死にますよ、と医師は言った。

その5年後が今だ、まあいつ死んでもおかしくはない年にはなったので
何があってもいいとは思うが、この5年間の、友人達、子供達の支えはとても大きかった、
おかげさまで紆余曲折はあったものの、元気に過ごしているわけだから、
何があってもいいなんて言ってはいけない。

この新年にあたって、より自由になるために概念のこだわりを外そう、と考えていた。
今年こそ実行に移すぞ、と強い気持ちだった、そして少しづつ進んでいる。
私にはカフェという場があり、人々と出会うことができ、様々な発見でスパークする喜びが
ある。解放へ、光の方向への人々の、そして己の変化を、この場で感じることができるのだ。

皐月、半世紀ぶりに再会した人がいた。あの19歳の弥生に「行動せよ」と触発した先輩だ。
あそこから歩き始めたのか・・・・そして今また新しい一歩へと踏み出す。