神無月のささやき

旧約聖書からみえてくること:

前にも旧約聖書のことを書いたことがあると思う。いつ読んでも何かが引っかかってくるのだが、今回は今の世界にもつながるポイントが見えてきたので少々述べたくなった。

旧約聖書にはかなり荒っぽい神様が出てくる。ユダヤ民族に土地を与える、と約束し、土地を獲得するため先頭に立って戦いを繰り広げ、自分を裏切った時には、罰として他民族からのユダヤへの攻撃を許す、というようなことまで、ユダヤ人を愛していると言いつつ翻弄する、ユダヤ民族とのアーでもないコーでもないを続けている家父長的な神様が居る。ユダヤ民族にとっての民族神である、と今のところ考えている。

この書物はBC7頃にそれまでの伝承をを編集したものであるらしい。
これだけ古くかなりのページ数(1800余)の書物ということだけでも大したものなのだが、そしてこのユダヤ偏重の神様だけではなくて、神様に関しては様々な表現があるので、何度も読んでいくうちにだんだんわかってきたりすることもあって、太古のいろいろな流れが入り込んでいる、玉石混合?カーオス?と旧約聖書をとらえたりしている。
文明の根源近くを探るのはいつだってわくわくするのだ。
キリスト教にとっては文化的、教義的に負っているところがたくさんある、と認めざるをえない。だって母体なのだから。(これを認めるには私は時間がかかった)

このユダヤ民族にとっての、明らかな土地獲得のストーリーの部分が、気になるところなのだ。ひょっとしてこれが現実の歴史に強く影響を及ぼしているのではないか、と思うのだ。

2000年前に出たイエス・キリストは当時のあの社会では革命家であった。旧約聖書の掟に凝り固まったユダヤ社会へ全く新しい価値観をもたらしたからだが、そしてその革命性故に彼は殺された、と新約聖書で示されている。新約聖書というのは、旧約とは違って、イエス・キリストのことが述べられている。
彼の新しい世界観は、戦いではなく、愛と慈悲なのだ。イエスは「敵を愛せ」、「平和をつくる人々は幸いである」というようなことを言ったのだ。
民族への土地獲得が目標ではない。個々の人間へ働きかけ、回心をうながした。
戦え!と先頭に立っていたあの神とは全く正反対の、愛、慈しみ、弱さ、小ささ等に価値をみる教えがイエス・キリストによってもたらされた。彼より数百年早いインドでのブッダの教えによく似ている。

最近の紛争がイスラム教徒とキリスト教徒の宗教戦争ではないか、と言われているようだが、もし宗教戦争だとしたら、イスラム教徒とユダヤ教徒の戦いではないか、と私は推測しているのだが。

旧約聖書はユダヤ教徒にとっては聖典であり、また、イスラム教徒にとっても聖典となっている。
ユダヤ人もアラブ人(イスラム教徒)も両方とも旧約聖書の中での、始祖アブラハムの子供たちなのだ。アブラハムの正妻サラの子、イサークからの子孫がユダヤ人で、サラの女奴隷ハガルの子、イシュマエルからの子孫がアラブ人と書かれている。異母兄弟である。微妙な問題点である。

アブラハムに約束されたその土地はBC13c頃のモーゼによって導かれたユダヤ人が獲得し、ユダヤ王国となり、アブラハムのゆかりの地であるエルサレムに都を築き、ソロモン王が父ダビデ王の悲願を叶えてユダヤ教の壮麗な神殿を建てた(BC10c)。

その後しかしBC7Cにバビロニア軍によって壊され、それをペルシャ王の助けによって建て直し、BC1Cヘロデ王によって大増築され、AC70、ユダヤがローマ軍に滅ぼされた時、又破壊され、その後は7Cにイスラム軍によって占領され、ヨーロッパ十字軍の出兵で、取ったり取られたりを繰り返し、破壊、建て直しの繰り返しで、今のエルサレムの街自体が2000年前よりは少なくとも7mも上に積み重ねられた高さにあるという。

13C頃からはヨーロッパ勢は衰え、エルサレムがイスラム教徒の支配下となった。
イスラム教徒にはメッカがあるだろう、と思うのだが、メッカが一番で、エルサレムが二番だか三番だそうだ。30年程前にあのフセインという人が寄付した金塊でメッキされたドームはとても美しい。そのドームのある所はソロモンの神殿のあったところだ。今は、キリスト教徒もユダヤ教徒もその地域へは許可証なしには入れない。

キリスト教徒にとってはソロモンの神殿の再建の必要はまったくない。聖書に、あなたの祈るところが神殿である、と書かれているのだから、神殿はもはや、物理的な場ではなく、人の体や魂だったりする。しかしユダヤ教徒にとっては非常に大事なところなのではないか。今現在はユダヤ人は神殿の丘の下の西側の壁までの地域を許されている。その壁を嘆きの壁と名づけ、そこに頭をこすりつけて老若男女、多くのユダヤ教徒が祈っている姿には真摯なものを感じる。いつかは、この上の、アブラハムがイサークを捧げた石の祀ってある、ソロモンの神殿のあった、今イスラムのドームのあるところに、ユダヤ教の神殿を再建して礼拝をしたい……と祈っているのかもしれない。

ユダヤ人の聖地奪還、という思いがどの程度のものなのか、と考える。
ディアスポーラといわれ、土地のない、離散の民として、過酷な苦渋の歴史を長く経てきたユダヤ人だ。ナチによるフォロコーストという人類として最悪の状況を生き切ったユダヤ人にイスラエルという国を戦勝国が与えた、ような形だが、建国の翌日から土地を取られたと思っているパレスティナとの闘いが始まっている。いわゆる中東紛争だ。
イスラエルの中のエルサレムという街は、そこを聖地としているイスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒、アルメニア教徒に四分割されている。一番聖なる神殿の位置は、しつこいようだが、イスラム教の管理地である。

アメリカ建国というあの時に、土地を持たずに世界各地で虐げられ続けてきたユダヤ人が、何を考え、どういう動きをしたであろうか、と結びつけたくなるが、ユダヤ人としては大ロマンが描けたのではなかろうか。いかなる形を取ろうとも、ユダヤの強い思いがアメリカという国のどこかにあるのではないか。
建国以来アメリカはどこへ向かってきたのだろうか、アメリカ大陸の東海岸から西へ西へと着々と戦いとってきた、そして、太平洋戦争、それ以後も、西へ西へと戦いのラインが伸びてきたのではないか?アジアから中東へ、ほとんどでっち上げの戦争をしかけ続けてきたのではないか、今やシリアで戦闘が行われている、という現実。
アメリカの戦いの流れはとうとうエルサレムを目の前にしている、と唖然とするのだが。

どの宗教でも原理主義的なかたくなな部分、がある。それがいつもあちこちの発火点近くにある。そして現代社会は宗教以外の複雑な要素が絡み合っている、ということも、現代人ならばわかる。しかし、狂気ではないか、と思われる極端な動きが今や多すぎる。

環境破壊をともなう、戦争という人殺し、子供でもはっきりと分かる、人としてやってはいけない悪いことを、国として、躊躇もなく行っている超大国アメリカ。それを支えようとしている?日本。
世界の富は、ほんの数パーセントの人々が90%以上を持っているという、恐ろしい程の格差。
だから、戦争は決して金儲けのためではない。

聖地奪還願望というのが、実際あるかどうかは分からないが、あってもおかしくないのではないか、それが無意識であろうとも、意識の根底にあるのではないか、と私は思いを巡らすのだ。

もしそうならば、やめて欲しい、もう終わりにして欲しい思う。

追伸:この文を書いた後、ある本を読んだ。びっくりした。
   エルサレムでのソロモンの神殿再建について、アメリカという国が関わっていると、
   書いてあった!!
   「タリズマン」グラハム・ハンコック&ロバート・ヴォーバル著 竹書房