睦月のささやき

冬至が12月の22日でそこが闇から光への分岐点。この後お日様の出ている時間がだんだん長くなってくる。
日本列島の置かれた位置は程よいところで、四季が有りバランスが取れて、冬中お日様が出ない白夜だったりすることはなく、太陽の熱さで命がカラカラになるような目にも合ったりしない。人は地球上どのあたりに生まれるかで、多分感性も違っていると思う。この列島に生まれ育ったことで、得ている感性はなんだろう。

しかしどこでも、冬至は光のスタート点だ。クリスマスというキリストの誕生日もその辺にあり、お正月もその近くにある、というのも、光の誕生と関わっているからだと思う。光の誕生は命の誕生。

光が誕生し地上が温められると命が吹き出す。春になる。美しい花盛り。夏になると命は燃えたぎるかのように力強い、そして実りの秋、思いもかけぬ美しい果実が生じ、本体は勢いを失う。冬は枝は残るものの葉っぱは消えたり、全く消える物も有り、眠るものもいる。静けさ。光が少なくなる。闇が来る。この太陽のサイクルは毎年自然界で行われ、毎年といわず、何十年のサイクル、極端に言えば何万年のサイクルで回っているものもあるだろう。サイクルでない動きをするものもあるだろう。

人もサイクルで生き死にするとしたら、輪廻転生ということだろうか。このことに関しては私はよくわからない。人の存在とは肉体だけではなくスピリチュアルな部分がある、というのは多分そうだろうと思う、しかしいかに、はわからない。そして宇宙とどのように関わるかがわからなくなる。宇宙は物質だと思うので、スピリチュアルな世界とは別物かも知れないとも思うし。何かを知るということや納得したり取り入れたりするためには直感で探っているようなんだけど、直感が把握できるのは自分に関わる狭い範囲だけのようだし、本当にわからないことは山ほどある。

確実性のないその曖昧さの中でゆらゆらするという生き方は老齢に入って次第に慣れてきている。老齢というのは冬ということで、もうすぐ終わるということなんで、エネルギーがギリギリに日々削がれてゆくというマイナスの感じと、今まで分らなかった曖昧な部分が優しく近づき明らかになるようなプラスの感じでゆらゆらしているのかもしれない。最後の日々のため準備をせねば、と最近よく思う。それはとにもかくにも収支決算のようなことで、やってしまったこと、生じさせてしまったこと、それがこんがらかって不自由な場合、その困難さを解決すること,それが,死ぬまえにやらなければならないこと、だと思う。その人の抱える課題を解決しないことには死にきれない、とは キュプラーロスの話の中によく出てきたものだ。問題があったら逃げないで正面切って解決に当たろう、ぼけないうちに困難の坂を乗り越えよう、と日々言い聞かせている。

クリスマスには光の子が生まれる!なんと嬉しいことなのだ。毎年毎年生まれる。こんなふうに太陽がめぐり一年が過ぎ、そして始まってゆく。光の子と共に一年を過ごすのだ、と正月には意識することなのだ。