皐月のささやき

ヨブ記:

この旧約聖書のお話の始まりは 神とサタンの会話からである。神がヨブの義人ぶりを自慢すると、サタンがそれはあなたが彼を守っているからでしょう、不幸にしてやればあなたを呪いますよ、と神を煽り、では、やってみなさいよ、とかいう具合で神がサタンと賭けをするのだ。

この段階で「えっ?」とまず驚く。
サタンは神の手下であるということだ。神の使いたちのひとりなのだ、いや、息子らしい。そして神がとても人間的なのだ。そう、これはお話、神と人との関係性を分かるための象徴的なお話。それを人の心の専門家である、精神科医のユングが解説した本があって、「ヨブへの答え」、これを読んだら目からウロコだったのでちょっと記したい。

旧約聖書のお話の中では、テーマの深さに於いて特筆しているようで、後の西洋の文学者たちを刺激したと。ゲーテはヨブから「ファウスト」、ドストエフスキーは「カラマーゾフの兄弟」を生み出したと言われている。

ヨブという人が、苦悩の中で、神に対して、答えてくれ、と質問を投げかけている。人と神のとの初めての対決かもしれない。
 

 私の生まれた日は消え失せよ。3-2
  苦悶のゆえに語り。悩み嘆いて訴えよう。7-11 
  人間とは何なのか?なぜあなたはこれを大いなるものとしこれに心を向けられるの
  か。朝ごとに訪れて確かめ、絶え間なく調べられる。 7-17~18
  私が過ちを犯したとしてもあなたにとってそれがなんだというのですか。7-20
  私を裁く方に哀れみを請うだけなのに。 9-15
  罪もないのに突然鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑う。この地は神に逆らう
  ものの手に委ねられている。神がその裁判官の顔を覆われたのだ。違うと言うなら、
  誰がそうしたのか。 9-23
  なぜ私と争われるのか教えてください・・・あなたも肉の目を持ち人間と同じ見方
  をなさるのですか。 10-2~3
  私は知っている、私が正しいのだ。 13-18
  私の手には不法もなく、私の祈りは清かった。 16-17
  神が私に非道な振る舞いをし、私の周囲に砦を巡らしていることを。 19-6
  なぜ全能者のもとには 様々な時が蓄えられていないのか。何故神を愛する者が神
  の日を見ることができないのか。24-1

ヨブは神の許したところのサタンの働きかけにより、(ヨブはなにもしらないのだが)、一挙に持つもの全てを失った。それでも、”私は裸で母の胎を出たのだから裸でそこへ帰ろう”と神を呪わなかった。神とサタンは第二弾として、病気の苦しみを与えることにする。灰の中で悶えることしかできない当時の死の病、皮膚病だ、それでもヨブは”神様から幸せを頂いたのだから不幸もいただこう”と神を呪うことはしない。この時点でサタンは賭けに負けている。三人の友人が見舞いに来るのだが、七日七晩あまりのひどさに近寄ることもできない。次第に友人たちは、ヨブが罪を犯したからこのような苦しみに会うのだ、ということを言い出す。それに反論するヨブ。神は正しいのだから、ヨブが罪を犯しているはずだという前提の友人らと、私は正しいという前提のヨブとの議論は噛み合わない。次第に双方いらだち非難をし合う。最後に一人の若者が神の公平さを説くのだが、それもヨブの疑問に答えるものではない。ヨブの質問へは誰も答えが出せない。そして、そこで神が現れ返事をするのだが。

その返事は後回しにして、はじめに戻るが、神が何故サタンの誘いに乗ったのだろうか。この神は旧約の神ヤーウェ、つまりユダヤ教の神なのだが、人間的、あまりに人間的すぎるのだ。エピソードをいくつか挙げると、①楽園でのアダムとイヴに、採ってはいけないと言って知恵の木の実をさも美味しそうに見せびらかす。②カインとアベルの兄弟に向かっては、はっきりと差別をして嫉妬を煽る。③ノアの方舟の時は、何も皆殺しにしなくてもいいだろうに、いうことを聞かない人類をノア一族を残して一掃してしまう。意地悪さにおいて、行動の単純さにおいては専制君主のようではないか。その専制君主のヤーウェは息子のサタンがちょっと煽ると、すぐ、そうだな~ヨブは大したやつだよ、ひょっとして俺を超えるかも知れない、ぐらい感じたのだろう。ヤーウェは神だから、全知全能だが、バランスが取れていない。怒りや嫉妬で満ちてしまうこともある。人の悪行というのは大体がサタンの誘いによって起きる、そのことは神は重々にご承知だ、にも関わらず、サタンではなく人を責められるのだ。人に対しての、愛とかいうものはこの段階ではこれっパカシも見えない。

神概念というのは人間が作り上げたものである。旧約聖書の神、ヤーウェはユダヤ人の作った神概念である。それが、
BC6頃に文字に書きとられる前には口から耳への伝承で数世紀も保たれていた。その古さ、その壮大なる神と人の関わりの歴史は、人類史上これほどのものは、ほかにはなく、今なお、ユダヤ教のみならず、キリスト教、イスラム教の基盤となっている、ということなのだけど、神という目に見えない存在、はっきり把握できない存在に関しての概念だから、人間に分からせるために人間的に表すほかはない、ということだろう。人というのは、そのような存在を希求をする者でもあるらしいし。(信仰心とは別個のものとして、私は今ここで神概念のことを述べている)

神が現れ返事をする場面に戻る。神は言う、
  お前は何者か?知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。・・私に
  答えてみよ。
  私が大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。 38-2~4
そして、大自然のあれこれを述べ、俺が作ったんだよ、お前にはできるか、知ってる
か、と己の天地創造の素晴らしさをのべ、己の偉大さを誇示する。
  全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責め立てる者よ、答えるがよい。 
  40-2

ヨブの問いには全く答えていない。対話が成り立っていない。

ヨブはここで神に答える。
  

私は軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。私はこの口に手を置きます。
  一言語りましたが、もう主張致しません。ふたこと申しましたが、もう繰り返しません 40-4~5

すると神はヨブにダメ押しをするように、怪獣を引っ張り出してきて、レビヤタンと戦うなどとは二度と言わぬが良い。 40-32 彼の体の各部について私は黙っていられない。 41-4 

と一ページに渡って怪獣の身体を描写する。

ヨブは又答える。

  あなたのことを耳にしてはおりました。しかし今この目であなたを仰ぎ見ます。
  それゆえ私は塵と灰の上に伏し自分を退け悔い改めます。 42-1~6

ヨブは神を目の当たりにし、これは人類始まって以来のことだった、と思うが、だからこそ、咄嗟に悟ったのだった。この神相手には今語り続けてはいけない、と。見てはいけないものを見たのだ。ここがヨブのすごいところだと思う(このことは私はユングから学んだ)ヨブはここで神を超えた、と。ヨブは神の背面を見てしまったと。光と闇、その闇だ。獣性は普段は闇の部分に隠してある。神という存在は光と闇、両方兼ね合わせて持っているのだ。全知全能、存在として完璧であるのだから。善があり悪もある、ということだが、ヨブの前に姿を見せたのは獣性だった。

神も神だからこそ、己のしたことと、ヨブが自分を超えたことをわかってしまった。そしてその後、反省し新しい在り方を模索したのではないか。神様の反省、というのが面白いし、神が変化する、という概念そのものが私には新しかった!そしてそれは旧約聖書というものがどういう書物か、ということをおさらいするには絶好のチャンスとなったのだ。

ヨブの言葉の中に、神の新らしい在り方のヒントがいくつかある。
神にとっての教材とも言える。

   神の裁判官の顔、と表現しているもの。 9-24

   あの方と私の間を調停してくれるもの、仲裁するものがいるなら、私の上から
   あの方の杖を取り払ってくれるものがあるなら、その時にはあの方の怒りに脅
   かされることなく恐れることなく私は宣言するだろう、私は正当に扱われてい
   ない、と。  9-33

   

このような時にも、見よ、天には私のために証人があり、高い天には私を弁護
   してくださる方がある。私のために執り成す方、私の友、神を仰いで私の目は
   涙を流す。  16-19

   

あなた自ら保証人となってください。ほかの誰が私の味方をしてくれましょう。
   17-3

   

私は知っている、私を贖う方は生きておられ、ついにはチリの上に立たれるで
   あろう。この皮膚が損なわれようともこの身を持って私は神を仰ぎ見るであろ
   う。この私が仰ぎ見る、ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ,腸は絶
   入る。 19-25

  

 では、知恵はどこに見出されるのか、分別はどこにあるのか。 28-12

ヨブは神の内に正義、裁き、弁護、執り成し、つまり、知恵も愛もあるはずだと信じている。ヨブの問によって,神はあまり使われていなかった部分、知恵と愛を刺激されざるを得なかった。サタンのいつものおせっかいな意地悪から展開した人と神の対決であったが、これは瓢箪から駒、だったかもしれない。

BC5Cに書かれたとしたら、2000年程前にあった、イエスキリストの神の子として十字架上での贖罪という出来事が、これらのヒントとつながってくるのだ。キリスト教的には、十字架は人類の罪を贖う、と言われているが、ヤーウェという人間的な神の犯した罪も同時に贖罪せねばならなかった、ということになると、今まで見えなかった裏側が見えるようになるのだ。あの怒りっぽい嫉妬深い神はイエス以後はいなくなっているという展開も理解できる。だからこそ十字架もキリストの復活も一回限りの出来事であり、これを軸として、人と神の世界は大変容をしている、ということがはっきりしてくる。私にとっては、キリスト教が深みを帯びてくる面白い幕開けとなった。神の受肉化は二重の意味がある、ヤーウェの神もキリストと共に十字架に打ち付けられた、とすることによって十字架の秘儀となる。