水無月のささやき

「各個人は皆基準からはみ出している。
Every individual is an exception to the rule.」  ユング

という言葉を見たとき、ハットした。そうだよなあ・・みんなだよなあ・・・私だけではないんだ、みんなどっかしらがはみ出しているよなあ。すごく規則が大事な人もいるけど、その人だって、どこかがはみ出しているしなあ・・・これって、当たり前のこととして言っているのかな。ルールってなんなんだろう?

ルールは破るもの、というルールがあった昔々の私を思い出す。

世間様に恥ずかしい、とか世間体とかいう言い方を人はよくするが、これが基準からはみ出してはいけませんよ、というルールでしょう。私自身は、若い時から反抗的で、世間や、親の考え方は古くて、固くて、狭くて、と思っていた。自分の方が正しいし、新しい世界の方がベターで、さあ冒険の旅に出ようと意気揚々だった。

50年前若かった我々は、個において右か左か、白か黒かをはっきりさせる必要があったのでは?と今の若い世代に最近指摘された。私が自分の正しさを主張する癖がある、ということで、なぜだろう、と考えていての一つの答えだったのだが、時代のせいなのか?私一人の癖ではなくて皆そうなのか? 私個人のかなりのアクの強さもあるとしても、全体としてそういう傾向があるというのも当然考えられるよなあ、と納得。当時学生運動真っ只中、右にも左にも所属したくなかったので、私だけのという道を選び、それゆえに、自分を正当化する必要があった。最近は個がそれほどはっきり色分けされる必要はないらしい。大まかにグループ分けされ、また細分化されているグループが互いに緩くつながっているみたいなんだそうだ。

あの頃、すべてに覆いかぶさっていたあの重苦しい空気はなんだったんだろう?今もそれはあるような気がするが、政治という古狸、いわゆる大人の常識が純な若者をひねり潰そうとしていた、と感じていた。なんらかの切迫感のある時だった。切迫感は個の意識を生む?

ヴェトナム戦争真っ盛りだったということも当時の重苦しさだった。
ある娘が、「ベトナム戦争反対」と意思表示をすると、父親は、「俺たちが食べていかれるのはアメリカのおかげだ、黙れ」で話は潰された。

あの大学紛争は浅間山山荘事件で終幕となり、その終わリ方は不幸だったなあと感じていたのだが、最近、ひょっとしてそのための演出があったかもしれない、と思い始めた。学生運動そのものが悪の権化であると示すもってこいの終幕であったし、その後ぷっつりと若い世代が保守化している。あの一部の極端な不幸な学生だけを追い詰めるドラマを放映し続けたのは、やはり古狸の策略があったのだろう。

その頃フランスでは、もちょっと大人のフランスの学生さんたちが着々とバリケードを作りながら、政府と戦い、学生の権利、女性の権利を勝ち取っていったと聞く。さすがフランスだ。彼らの歴史で獲得されていた民主主義は日本の地には根付いてはいない。戦後民主主義というのはお題目だけで、この地では育ってはいない。だって、対話がないのだから、ここ、日本には。100年前も、50年前も、今も、あるのは支配者と被支配者。命令と従属。戦後すぐの教育を受けた私たち、さあ民主主義ですよ、という掛け声は大きかったようだが。

西欧では百年以上になるだろう、革命的な思想の変遷があった。キリスト教的な価値観、つまり教会の支配に2000年近く締め付けられ、それが理不尽であると感じ始めていたのだ。産業革命、科学の発達とともに哲学者やら思想家のオンパレードだった。学生の頃ニーチェやユングに魅力を感じていたが、一万キロも離れた極東の劣等生にすら、彼らの言葉が響くのだから、本当にすごいことだ。有難いことに、今や、100年前よりも、50年前よりも、世界の思考の流れは、東も西も重なり合って、わかりやすくなっている。単純なイデオロギー紛争でもなくなり、多様化と緩さの自由が浸透している。

ユングはチューリッヒにおいて、世界大戦の頃、人の心の治療に新しい方法を取り入れた人だ。しかし、ユングの思考は様々な方面へと広がっているので、当時は一般には突飛すぎたのか、余りにも新しすぎ、理解されにくかったと思う。何十年も経た今は当然理解する側の変化がある。今や彼の危険性として指摘されていた、アンチキリスト教、スピリチュアルな世界、自由恋愛、等は全く当たり前の大衆感覚になっている!という現実に私はびっくりしている。スピードがすごい。

あっという間に、道徳的な規範はバラバラ壊れてしまっているようだが、これは我々の世代が望んだことだったんだろうか。壊したかったのは別物だったような気がするのだが。いやいや、人というのは理不尽で否合理な生き物だから、なんでも起こるだろうし、なにがおこっても変化は変化でよしと。

20年ぐらい前に、小学校のお母さん仲間とユングの勉強会をやったことがある。その時もまだ、ユングは少し危ない、と一般には思われていた。彼は預言者的でもあったろう。哲学とか宗教とかだけではなくて、精神医学、心理学を加えて、”人とは何か”を探った人だが、この永遠の問、”人とは何か”をとことん問い詰めた人、として私は眺めている。

日本にユングを紹介したのはスイス人司祭のI師である。私の大学時代のドラマトゥルギーの教授であった。スイスのバーゼルの近く,古い小さな街で彼の実家がホテルを経営していて、そこで私はヨーロッパ滞在の初期の頃お世話になっていた。ホテル学校へ入るつもりでスイスに行ったのだけど、結局はそこでのある出会いを機にチューリッヒ大学へ入ることになり、運命の道が作られていったのだ。

私のチューリッヒ時代の友人たちは、ユングのことをことさら話題にはしなかった。自分らの街が世界の最先端をいっているという自負はあっても保守的であることは、どうしても否めない彼らなのだ。そして当時は彼はまだ新しすぎた!だけど、ユングの思想があの街で起きたのだ、という感動は、今になって私に起こってきた。あの湖畔の散歩道を彼は歩いていた。私も歩いた。キュスナハトの彼の家の前に立った記憶、そんな実感を私は大事にしたいと思っている。彼が86歳で亡くなったのが1961年、私が25歳でチューリッヒに住み始めたのが1971年、たった10年しか経ってなかったのだ。巨大な火芯に引き寄せられる虫のごとく、それ以上にもっと薄くて遠いけど、なにかつながりを、こじつけたくなってとりとめもなく・・・。