正月の書き散らし

宗教って?

宗教ってなあに、と改めて問いかけられて、考えているところだけど。

集団催眠に過ぎないのだ、と?

「サピエンス 全史」というユダヤのユヴァル・ノア・ハラリによって書かれた、世界のベストセラー本にそうでている。私が読んでから、息子に貸したのだけど、息子は目からウロコだった、と。そして私に、あなたはこれを読んで、どんな反応をしたのかと聞いてきた。

私自身はごく若い時から、ミッション幼稚園、ミッションスクール、カトリック大学と期せずして、そういう環境にいたため、思春期に自発的に洗礼を受けた。でも、学校を出てからはほとんど教会に近寄らず、ヨーロッパに10年滞在していた時も全く教会へは足も関心も向かなかった。

50過ぎて人生の問題をモロかぶった時にやっと、ああ、神様のこと棚卸ししなくちゃ、と思って、少しずつ勉強を始めた、というわけで、今はとっぷり浸かっているようなんだけどいつもどこかで疑いを持つことはやめられないという半端な立ち位置。

つまり私自身もこのぬるま湯、といってもいいのかもしれないけど、ないよりはあったほうが生きるということがとてもわかりやすくなる信仰の世界は手放せないのかも。人を愛する、そして感謝、それが生きる上で大切、と言ってくれて、とてもわかりやすいのだ。

元に戻るが、宗教は集団催眠に過ぎないのだ、と言われて怒らないのか?反対論を出さないのか?と問われたのだけど、私の答えは、そういう意見もあるでしょうね、あってもいいと思う、である。私の考えとカトリック教会の考えも違うだろうし、あなたの考えは私の考えと違うから、あなたは間違っているのだ、なんて誰が言えるのですか。怒りを起すほどのことでもないし、他の意見を認めることは自分の信念をを変えることでもない。自分が変わるとしたら、成長、進化するのだと思えばいい。

そして、集団催眠的な要素が時にあったとしても、構わないのでは? とも思う。方向性が美しければいい、と私は思う。というのも宗教の扱う世界は摩訶不思議でわけのわからない対象を扱っているのだから。人は美しさを目指さなければ混沌の中に陥る。美しさ?あるいは光?そこからはずれなければすべてはいい、とおもうのだ。

わかるわけのない対象を扱っているのだ、と分かることが大切。それが分かれば、文化的に様々な違いがあるから、どんな表現であろうともかまわない、と私は考える。

クリスマスをキリストを知らずに喜び楽しむというのも、わけのわからんお祭りでいい。

冬至で光が始まり、クリスマスを迎え、さあ新年だ。宇宙の流れに添って人は生活している。

新年ともなれば、初日の出を拝みに人々は海へ、山へでかけ、あるいは自宅で、登ってくる光を眺めるという日本の習慣は美しい。

日本人は無意識に宗教的だと思う。曖昧さの中に見えるまっすぐな心、このまわりの曖昧さがいい。

宗教はわけのわからんボワーッとした世界への道を示している、ともいえるかなあ。