文月の書き散らし

荒行と所作

酒井雄哉
  比叡山千日回峰行を 2度達成した行者で この千年間に三人しかいない。
  なになになんとか大阿闍梨と呼ばれる。

大阿闍梨を訪ねるのだが一緒に来るか?
と言われ何となくついていったという人がいて、彼が語ってくれたこと。
「小さな庵に住んでおられた。入り口の部屋には本棚があり沢山の本が並んでいた。お茶を出してくださった。その所作がとても美しかった」と。

これだけのことなんだけど、私はその所作の美しさということが印象づけられた。そしてその事を納得もしていた。難行をやり遂げた人だもの、と。しかしこの話をある人にしたら、千日回峰行というものの後に、何故その所作の美しさが現れるのか?と言われ、はたと困った。日本文化において、形から入り所作の美しさに到達する、というのは一般的で知ってはいた。しかし山の中を2000日駆け巡るという荒行?が何をもたらし所作を美しくしたのか、という説明はできなかった。

たまたまその次の日にその語ってくれた当人がいらしたので、聞いてみた。
その答え、「命がかかっているのだ、死と紙一重で山を駆け巡っているのだ、謙虚にならざるを得ない」と。どっきりとした、謙虚さ、究め得たもの、はこれか。
あまりにも簡単に得た答えに唖然ともしている。

今道元の弟子の書いた「正法眼蔵随聞記」の読書会を始めた。日本の心、日本の瞑想、禅にについて学びたいからだ。人に勧められて、直感的にこの本を選んでしまったが、楽しみたい。
今までは「Word into Silence」というベネディクト会のジョン・メインという人のキリスト教的な瞑想についての本を読んでいた。深い世界を知らされた。(英語から日本語に翻訳したので、今出版社を探している)
次の本として眼を日本に向けた時に、「弓道と禅」というドイツの哲学者が書いた本もあった。このドイツの哲学者、オイゲン・ヘリゲルが弓道、禅の心を知るに至る、困難な旅路についての本なのだが、彼を指導した阿波研造という人は素晴らしい師匠だった。ヘリゲルにとって最初はまったくちんぷんかんぷんだった、ドイツ哲学とは正反対ともいえる東洋の神秘的なありようを、師匠の導きで理解できるようになったのだから。西洋的な教育をバッチリ受けている我々も、ひょっとしたらヘリゲルと大して変わりないのかもしれない、理性の部分は。感性は?でも違うだろう。我らの師匠は我らの感性か。

所作の美しさは形から学ぶ、と聞き及ぶ。生活を律する、という側面もあるらしい。生活を律するには大きな枠の意識もあるかもしれない。開放された世界ではないかもしれない。内へ内へと入ってゆくのかもしれない。

所作の美しさ、我々団塊の世代は知らずにいる者がほとんどではないのか?いやそれはあなただけよ、と言われるかもしれないが、確かに私は全く外向きの人間だったし、所作を意識したことが無くて無作法に近かった。いまだ息子に荒っぽさを注意されている体たらくだし。しかし今は日本のその美しさにあこがれる。今更なにかお稽古を始めるのか?いや、違う。だがなに?

ああ、やはりこれしかないでしょう・・・謙虚さ・・・今まで学んできたもろもろのこと、すべてがこれが大事なんだよと教えてくれている、と今気づいた。

ほりこしのぶよ