文月のささやき

庭木

桜の小枝が朝日を受け風に揺れている。さわさわと涼しげだ。時に動きが止まる、またそっとゆれる。
椿、金柑、茱萸、柿の木の重なりが、濃い緑となって、光の抜けてゆく桜の小枝のあたりを囲んでいる。
この庭の静けさが、何十年と私を癒してくれていた。デスクから、目を挙げては、じっとながめていた、
テーブルに座ってもまずは庭を眺めていた、朝も、昼も夕も。癒されていたことに気づいたのは今。

あるとき竹が一気に増えた。左手の母屋のあたりから出始めた。この竹を買ってきて植えたのは30年ぐらい前、敷地の北東の角だった。竹田という名の故にこの地に竹を植えることにしたためで、数株の真竹と黒竹だった。それが床下をくぐって敷地の南西にあたる裏庭へお日様を求めて20年ぐらいかかって出てきたのだ。あっという間に鬱蒼とした竹林になった。夏は涼しくていい。緑に囲まれていたいという私の願いを叶えてくれたようだった。しかし、しばらくすると庭の主である大きな桜の木が弱っているように感じられてきたのだ。枝が枯れている?と気づいた。もう寿命なんだろうか?いや、竹の根がそこいらじゅうを覆ってしまったからだ、と当時の植木屋さんが教えてくださった。どっちを取るか?やはり桜だろう。花吹雪の美しさは他には変えられない。この桜あってのこの庭なのだから。もう老木なので優しく扱わなくては。竹はほとんど取り去った。三年ほど筍をとり続けていたら、もうこちらへはポツーン、ポツーンぐらいしか出なくなってきた。桜は元気を取り戻した。

桜の咲き始め、幹の下の方にひこばえという小さな枝が出てくる。それが一番に花を付ける。大きな木になってしまったので、花ざかりの広がりは二階のテラスから眺めるか外に出て見上げるかしかない。階下では部屋にいる限り桜の太い幹ぐらいしか見えないので、ひこばえの咲き始めはとても嬉しい。その手前に冬も始めの頃からずっと咲き続けていた赤い八重の椿がある。艶やかな重たげな花が枯れた冬の庭に鮮やかなのだ。それが、今年は桜が咲き始めてもまだいくつか咲いているのだ。淡いさくらの色と真っ赤な椿の色が、緑の中に浮かんでいる美しさは画家の山口先生が絵にしてしまったほどだ。

隣家への慈しみだと思いなさい、と友に言われ、隣家にはみ出ている枝を切ることを、やっと決心。アマゾンの緑も、アジアの緑も私には守れない、しかしここの緑は私にしか守れない、と言い続けて、我がジャングルを守ってきたのだけれど、再三の申し出に、また友人たちの説得で若い植木屋さんをお願いしたのだが、切り終わった時の庭を見た私は涙が出てきてしまうほど哀しかった。これははみ出した部分だけではない!切りすぎだ!しかしもう遅い・・・・皆が慰めてくれる、光が入るようになった、隣家が納得してくださった、すぐ伸びるさ、などなど。

カフェのテラスの前の狭い庭は竹やぶのようになっている。こちらも床下を通り20年程かけて北から南へ出てきたものだ。風に揺れる竹の風情はこんな街中では希少価値、毎春の筍も細いけれどとても美味しい。テラスの二階には小部屋があり時々セッションに使っているのだが、小部屋の北側はここ数年でものすごい緑に覆われてきた。これは30年ほど前にちょっと玄関先に、と園芸店から買ってきた苗を植えたものだ。こんなに大木になるとは!えのきの木らしい。見事な、この屋敷の主の風情を持つ。小部屋に寝転がって、その枝の広がりの緑を眺めていると優しく抱かれているようで幸せになる。北側のビワの大木も子供の時からあるのだが、今年は豊作だった。トパーズ色の実がたわわに天空に浮かんでいるさまは美しい。カラスお断りの看板を出す必要は今年はなかった。果実は恵みだ、単純に幸せをくれる。枇杷の実、種、葉全てが薬効があり貴重なのだ。しっかりエキスやお茶として使っている。夏みかんのマーマレードも我が家の特産。

アイビーもすごい繁殖力で、裏庭から屋根を伝って、表の塀の方までびっしりだ。これも竹と同じく強すぎるので、時々カットしなければならない。こちら側のキウイもよく育っている。電線にかかろうとしている。とにもかくにも切るなんて嫌だーとダダをこねている段階ではないのだ。隣家というのはもう四方に及び、四面楚歌。よくよく考えるとよくぞジャングルを作るというわがままをここまで通してきたものだと思う。

しかしである、緑が人を癒すのみならず、地球を救うのだと、私は固く信じている。ばおばぶジャングルは永遠だ。