弥生のささやき

ケッカフザ

結跏趺坐、というと 仏像が座っている姿勢のことで、
組まれた足先が腿の上に重ねられ、下半身がしっかりと収まり、
背筋がまっすぐ伸びている。
長時間座るには一番楽だと言われている。
しかし私のように脚が太くて短いと、この形は不可能なのだ。だから
半跏趺坐となる。これは単なるあぐら。

この座る姿勢を始めたのが2009年。
今数えてみて驚いたが、もう七年も経つのか?!
京都は丹波の山奥にヴィパッサナーをやるために出かけたのだ。
九日間の修行だったが、足がしびれてどうしても正しい姿勢で
座り続けることはできなかった。一番後ろの席で足を伸ばしたり
曲げたり、尻の下の座布団の高さを変えたり、さんざんだった。
「慣れますよ」といわれたが。

確かに七年立つと慣れてきた。座れることは座れるのだ。形だけはだ。

ヴィパッサナーをやりたかったのは、祈る方法が知りたかったから。
お釈迦様がどのようになさったのか、をヴィパッサナー瞑想法が教えてくれる。

キリスト教的瞑想、これはこの五十年ほどで
キリスト教が仏教から学んで取り入れた新しい流れである、と言っていいと思う。
トーマス・マートン、デ・メロ、ジョン・メイン、そしてジョン・ストンと
彼らの霊性が東洋の霊性と共鳴し、広がった世界だ。
東洋人の私にとっては、その東西融合の流れが心身に心地よい。

8年前、スペインの巡礼から帰ってきた時に、「祈りたい」とふっと思い、
探って、西から東へ、東から西へ、果ては虚空?へ、と迷いつつ、ここに来たようだ。

毎日座ることはできるようになったものの、瞑想をしようとすると、
ほとんど雑念に覆われて、はっと気づく、の繰り返しだ。
所詮凡人には無理なのか、だが、そのうちなんとかなるだろう、で
過ごしている。
そして面白いことに、以前は形式に過ぎない、と思っていた古い西洋の
祈りの形が、なぜか使いやすいと捉え直したりもしている。

今また、数人の仲間と座ってみよう、と「瞑想」をスタートすることにした。
日常生活から切り離された時を作る、という行為であるだけでもいい、と思う。
心静かに、空っぽになる試み。2016年弥生に始める。