弥生のささやき

レヴィー・シュトロースという哲学者、構造主義の親分がいます。100歳で2008年に亡くなりました。この人の「悲しき熱帯」はいい本でした。しかしその本が現代西洋文明を、当時の実存主義を、サルトルをコテンパンにしたらしいのだけど、私にはそれがどういう経緯なのかよくわかってはいなかった、それでちょっと確認したくて解説本を読み直してみました。構造主義がやはりわかりづらいので解説本に手が伸びたのです。

・・・・・サルトルは「歴史」を究極の審級とみなします。それは未開から文明へ、停滞から革命へと進む、単線的な歴史プロセスの上ですべての人間的営みの「正否」を判定するということです。しかしレヴィー・シュトロースにによれば、サルトルが「歴史」という「物差し」をあてがって「歴史的に正しい決断を下す人間」と「歴史的に誤りを犯す人間」を峻別しているのは「メラネシアの野蛮人が」彼ら独自の「物差し」を使って、「自分たち」と「よそもの」を区別しているのと本質的には全く同じ振る舞いなのです。・・・中略・・・「歴史の名においてすべてを裁断する権力的、自己中心的な知」として実存主義は批判され、それに対してサルトルは「歴史の名において」死刑宣告を下すという無策を持って応じ、実存主義の時代はいかにも唐突に終わったのでした。・・・

これで経緯はわかりました。私たちの青春期は実存主義が唐突に終わり、構造主義へと移った時だったのでした。今現在は構造主義が常識となっている、と言われているのですが、私たちはその真っ只中に有るって、びっくりでした。今や「ポスト構造主義」と言われているようですが、それは、
構造主義があまりにも深く私たちの物の考え方や感じ方に浸透してしまったために、その発想法そのものが私たちにとって「自明なもの」になってしまった時代、だそうです。私たちはどんな考え方を常識としているのでしょうねえ?

一つの例として、
80年ほど前、当時の大日本帝国臣民にとって、「日本人から見た満州国」と「中国人からみた満州国」が別様に見えるということは少しも「常識」ではありませんでした・・・しかし今やA国人とB国人は同じひとつの政治的事件について違う評価をするということは「事実」としてはもちろん誰にだって理解できます。いずれが正しいということは、にわかには判定し難い・・・これは常識である・・・。

いや微妙ですねえ・・・常識であってほしいですよねえ、いつだって過渡期ですねえ、人の世って。

もうひとつの例、人間の本性は「贈与」にある、とレヴィー・シュトロースは言うので、これは親族の仕組みの中のことなんですが、私は単純にひどく新鮮だったのでこれについて考えてみました。反対給付によってしか均衡を回復できない、人間が作り出すすべての社会システムが同一状態にとどまらないように構造化されている。

そしてここからは私流なのですが、
実際に私の見る「贈与」とはどうなのか?私の周りにあるではないか!最近やっ見えるようになったのですが、贈与の行為を続けている人達がいるのです。内容に関してはちょっと公表できませんが、彼らは自分のお金を他者のために惜しみなく使っているのです。大金持ちで余剰のお金ではないのです。自分の身を贅沢に飾るよりも、楽しみを求めるよりも、周りの人の幸せになるとはっきり分かることのためきちんと彼らは行い続けています。その結果がどうか、といいますと、周りの人々が、すごいなあ!と感嘆してみている、ということと、彼らがいつも優しい輝いた顔をしている、ということと、かれらを悪くいう人はほとんどいません。これが人としての理想であると私はやっとわかってきました。地に足のついた聖人たちが私の目の前にいるということに目が開いてきたのです。つまり、私も構造主義の真っ只中にいた、いる、そして私の傾向が有る、というのが見えてきたわけ。

レヴィー・シュトロースはむつかしそうな構造主義を述べていますが、結局は「みんな仲良くしようね」と言っているのだ、と解説本に書かれていたので、ホッと安心しております。その解説本は内田樹さんという人が書いてます。彼は「うつヌケ」という漫画本に一人の体験者として取材されていました。合気道をやっているカッコいい大学の先生だという印象でした。こんなふうにある一人が短期間に偶然に一番興味のあるところで重なってきたことは初めてかも。この人の本をもっと読みたくなりました。私より四歳お若い。彼の「私家版・ユダヤ文化」を買ったところ、これががまた面白い。

Nobuyo